誘惑 第三部 39 - 42


(39)
朝、少し心配だったが、電話をするのはやめた。
随分と早めに棋院に着いてしまって、そわそわしながらアキラが来るのを待った。
周囲のざわめきを感じて振り返るとアキラがいた。アキラはちらっとヒカルを横目で見て小さく笑った。
ドキン、と、心臓が一瞬止まりそうになった。
別れてから半日も経っていないのに、つい昨日もずっと抱き合っていたのに、それでもその姿を見た
だけで胸が高鳴るのを抑えきれない。
今日の塔矢は、でも、昨日の塔矢とは別人みたいだ。
昨日の塔矢は、甘えて、拗ねて、帰っちゃやだとか言ってたくせに、今日のあいつと来たら。
余裕のある落ち着いた動作。自分の登場によってもたらされたざわめきや、ちらちらと盗み見る視線
をものともしない、周りを圧倒するようなエネルギーに溢れている。
誰かが彼のそんな姿を見て、ふう、と溜息をついた。
ヒカルはそんな様子を内心誇らしげに見ていた。
ああ、やっぱり、塔矢は綺麗だ。本当に綺麗だ。あいつはなんて綺麗なんだろう。あんまり綺麗で、輝
かしくて、眩しくて、見るたびオレは見惚れてしまう。でも、あいつが綺麗なのは、カオとか、見た目とか
だけじゃなく、あいつの真剣さが、あいつの持ってるエネルギーが強くて、眩しいからだ。あいつの周り
は、空気だって普通とは違うみたいだ。どんなに沢山の人がいたって、あいつ一人が光り輝いている
ように見えるから、オレはいつだってすぐにあいつを見つけられる。


(40)
アキラはヒカルの方には来ずに、そのまま対局室に入り、自分の場所に座って静かに目を瞑った。
対局室のアキラを、皆、遠巻きにしながらも気にしていた。
考えてみれば当然だ。誰の目にも一段と存在感を増したように見えるアキラは、本来ならばとっくに
この場には相応しくない。もっと上のステージで輝くべき筈の人間だ。
対局相手が気の毒だ、と、誰もが思った。今日は確実に白星をあげられないのだから。
その相手を羨ましいと思ったのは、ヒカルただ一人だったかもしれない。
彼の正面に座って対局する相手を、彼の真剣な視線を、真剣な一手一手を受ける相手を、ヒカル
は妬ましいとまで思った。大半は純粋に棋士として、自分こそが彼と対局したいと思ったからだが、
どこかに小さく、彼に恋する気持ちの中で、彼の全てを独占したいという思いがあるのをヒカルは
知っていた。

オレ、もしかしてこれから、あいつと対局するヤツに一々シットしちゃうのかな。それってマズイよな。
でも、オレとの対局がやっぱり一番だって言って欲しい。
ああ、早く、塔矢と真剣勝負の場で対局したい。
でもそのためには、あいつがたまたまここに来るのを待つんじゃなく、あいつのいる所まで、早く勝ち
登っていかなくちゃ。
でも、まずは一歩一歩だ。あいつのいる所に上がっていくためには、どんな対局だって落とせない。
油断していい相手なんていない。
ヒカルは目を閉じて深呼吸し、それからぱっと目を開いて目の前の盤面を静かに見つめた。


(41)
打ち掛けの時間になっても、ヒカルはしばらく盤面を見つめ、今後の展開を練っていた。
ふと顔を上げ、周りを見回すと、アキラの姿は既になかった。
けれどヒカルはアキラを追わず、そのまま昼食を取るために外に出た。

相手の投了で勝負はついた。石を片付けてから結果を書き込みに行くと、ボードには既にアキラの
中押し勝ちが記入されていた。アキラの姿は見えない。だが、今日は手合いの後に取材が入って
いると言っていた。ヒカルはそのままアキラを待つ事にした。

頭の中で今日の対局を検討していると、ふいに声をかけられた。
「進藤?帰らないのか?」
「ああ、塔矢を待ってるんだ。」
何気なく答えて顔を上げてから、ヒカルは息を飲んだ。
「和谷…」
ヒカルを見下ろしている和谷の顔が蒼ざめているような気がした。
自分の事ばっかりで、もうオレは忘れてた。和谷は塔矢を…。
でも、だからって何が言える?何も言えない。オレだったら、何も言って欲しくない。
ごめん、とか、おまえの気持ちもわかる、とか、でも塔矢は、とか。

色んな事を言いたいような気もしたけど、でもそれは言っちゃいけないような気がして、和谷を真っ
直ぐ見たまま、固い声で、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「塔矢を、待ってるんだ。」
「そっ…か。」
多分、笑おうとしたんだろう。口元を歪ませたまま、じゃあな、と言って、和谷はヒカルに背を向けた。
ごめん、和谷。
でも、和谷がどんなに塔矢を好きだって言ったって、これだけは譲れない。誰にも渡さない。和谷だっ
て、緒方先生だって、他の誰だって。


(42)
「ああ、つっかれた…!」
開口一番、アキラはそう言って、さも疲れきったように部屋に上がった。
「誰が考えたんだ。こんな窮屈なもの。」
と、ネクタイを解きながらアキラは言った。
「だったらわざわざスーツなんか着て来なきゃいいじゃんか。」
「だって棋院に行くのも久しぶりだったし、取材もあったんだから、あんまりラフな格好って訳にも
いかないだろ。」
そう言いながら外したネクタイをそこらへんに投げ捨て、シャツのボタンを一つ二つ外し、更に上着
も脱ぎ捨てると、ぱったりとベッドに倒れこんだ。
大の字になってベッドに転がったアキラを、ヒカルは呆れた目で見た。
「おまえ…さっきまでと別人みたいだぜ?」
「そう?」
「とりあえず、そこらへんに放っとくなよ、コレ。それにそのまんまだとシワになるぜ?」
アキラが投げ捨てた上着とネクタイを拾い上げてハンガーにかけながら、ヒカルは小言を続ける。
「まーったく、塔矢アキラがこんな甘ったれの不精者だなんて、今日あそこにいた連中は絶対知ら
ないぜ?」
「そうだよ。ボクは外面がいいからね。」
そう言って、ごろんとベッドの上で転がって仰向けになると、ヒカルを見上げてにっと笑った。
「今まで培ってきた習慣なんて、中々変えられないよ。
でも、キミの前では自分を作ったりしたくないんだ。」
「じゃあ、その甘ったれの無精者がおまえの本質ってわけかよ…?」
「そうかもね。」
否定しようともしないアキラに呆れかえって、転がっているアキラを見下ろした。
「ほんっと、サイテーだよな。甘ったれで、ワガママで、自分勝手で、人でなしで、そのくせスケベで、」
「その上、嫉妬深いし、独占欲は強いし、性格は歪んでるし、性的嗜好も歪んでて男にしか欲情しな
い変態だし、」
笑いながらアキラが続けた。
「あ、間違えた。欲情するのはキミにだけだった。」
そう言ってアキラはヒカルに手を差し伸べた。
呆れながら近づいてその手を取ると、思いがけない強さでぐいっと引っ張られる。
そのままベッドに引き摺り込まれ、唇が重なって、ヒカルは目を閉じた。



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