平安幻想異聞録-異聞- 39 - 44
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(できるだけ、彼らに会わないように計画したつもりでしたが、無駄でしたか)
佐為は胸の奥で深く溜め息をついた。
「お風邪をお召しになったとか? われわれは、かの『京の妖し』をめぐって、
共に妖怪退治をした仲ではありませぬか。お教えくだされば見舞いに参ったものを」
「これこれ、顕忠、あまり押しつけがましいのも、佐為殿が困るだろう。
なにしろ、佐為殿が参内を休んでいた理由は風邪ではなく、お気に入りの
検非違使の看病のためだと、もっぱらの噂……」
そう言って、座間と菅原の視線がヒカルに注がれた。
ヒカルが体を固くする。
わかってしまった。
座間と菅原は今、あの夜のことを思い出している。
自分たちの頭の中で、今、ヒカルの服をはぎ、思う様犯しているのだ。
ヒカルはこぶしを固く握りしめた。
手のひらに汗がじっとりとにじんでいるのが自分でわかった。
だけど、意地でも目線はそらさない。
目をそらしたら、負けだと思った。
(なんと、強い…)
その様子を隣りでみて、佐為が思う。
自分が同じ立場であったら、目線を合わせるどころか、
ここで同じ空気を吸っていることにも耐えられすに
この場から逃げ出しているだろう。
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「それにしても、検非違使風情に、佐為の君ともあろうものが、そこまで入れ込むとは…、
佐為殿に焦がれる女は、この宮中に星の数ほどいましょうに」
「いやいや。顕忠、いくら美味い酒でも、毎夜続けて飲めば飽きると申す。
佐為の君ほどにもなると、普通の女の味ではもう飽き足らず、変わった酒の味を
おもとめになられるのであろうよ」
そう言って、座間が下卑た視線で、佐為の隣りのヒカルの足元からその胸、
のど元まで、じっくりとねめつける。
ヒカルはその視線に、否が応でも、あの夜、自分の体を這った、ナメクジのような
座間の舌の感触を思い出さずにはいられない。仕立て直したばかりの青い狩衣の下の
自分の体を、まるで、透かして見られているような気色の悪さに、ヒカルは、
後ずさりして佐為の後ろに身を隠してしまいたくなるのを、必死でこらえた。
「さてもさても、佐為殿も夢中になる、この珍しい酒を今度ぜひ、
ご相伴させていただきたいものですなぁ」
座間の扇が、ついとヒカルの襟元に当てられた。
そして、まるであの夜のことを思い出させるかのように、その扇の先で、
ヒカルの白い喉もとをねぶった。
「この辺りはなかなか美味そうに見えるが、本当に美味いのはこの青い衣の下の
小さな二つのつぼみかのう。それとも、もっと下の方かのう」
ヒカルは見てしまった。座間と菅原の目の中には、まだあの夜の、犯され、
泣いて許しを乞う自分がいた。二人の目の中では、自分は今も陵辱され続けているのだ。
足がすくんだ。
何か言い返すなり、一歩引いて座間から離れるなりしなきゃと思うのに、
動けなかった。
その時――
パシリ。
と、小気味のよい音がして。座間の扇が、飛んで大内裏の庭先に落ちた。
佐為が自らの扇で、ヒカルの喉元に当てられていた座間のそれを、
打って飛ばしたのだ。
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座間の取り巻きたちが、いっせいに腰の太刀に手をかけた。
だが、佐為はひるむ様子もなく、座間と菅原を睨みつける。
「言動に気をつけられよ、座間殿、菅原殿。私の警護役への侮辱は、
私への侮辱も同じ。それ以上、無礼な発言はひかえられるがよい」
「非礼であろう!このように扇を飛ばすなど!」
菅原が言い返す。
「非礼はどちらであるか! 自らより官位が低いとて、元服を終えた男子へ、
そのような野卑な物言い、たとえ、座間さまでも許されるものではありませんぞ」
佐為の口調はいっそ苛烈だ。
「私の警護役は余計な争いを嫌いますゆえ、あえて、ここで刀は
抜き申さぬが、一人前の武官に対してその言いようは、例えこの場で
叩き切られても文句は言えませぬぞ!」
「武官とな」
座間が、取り巻きの衛士から、落ちた扇を手渡されながら、言った。
「なるほど。失念しておった。何しろ、幾日前であったか。この検非違使と
よく似た者が、女のように声をあげ、可愛く泣いてよがるのを見ておった
ものでのう。いや、申し訳ないことをしたわい」
ヒカルの顔が青ざめる。
座間が金の箔を貼られた扇を開き、それで口元をかくして、
そのヒカルの方を見て低く笑う。
「いや、検非違使殿。あの夜、あの竹林からみた下弦の月は、まこと
見事であったのう」
「何が、おっしゃりたいのです。座間殿」
常の穏やかさの片鱗もない、切るように鋭い佐為の視線が座間に向けられた。
「御二方が、その下弦の月の夜に何を見たか、何をしたか、
存じませぬが、我が警護役には関係のないこと。それとも…」
その佐為の手はそっと、狩衣の袖の下でわからないように、ヒカルの
震える手に添えられた。
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佐為が声をひそめる。
「その夜に、御二方がどれだけ人の道にもとる所業をしたか、ここで
告白召されるおつもりか。これだけの女房、衛士の耳がある場所での言、
言い逃れはできませぬぞ。事は必ずや帝の耳にも入りましょう。そうなれば、
座間様の名にも大きく傷がつきましょうな!」
菅原が歯ぎしりした。
これだけの衆目の中、数日前の事件を公にされて困った立場に
追いやられるのは、どう考えても自分達の方だった。
座間の権力をもってしても、これだけの耳がある場所での会話を
揉み消すことは難しい。
事が表ざたになって好奇の目にさらされ、おそらく京の町を歩くのさえ
困難になるだろう立場なのは被害者である近衛ヒカルも同じだったが、
自分達が権力の座から引きずり下ろされるというのに、道連れが、
たかが検非違使ひとりというのも口惜しい。
だが、座間は落ち着いたものだ。
「いや、なんでもありませぬぞ、佐為殿、あの夜の夢があまりに
甘美なものであったものでの。夢のあ妖しに取りつかれて、
おかしなことを口走ったようじゃ。許されよ」
佐為に向かって、穏やかに笑ってみせる。
そして、慇懃な態度で、軽く礼をすると、一行は、何事もなかったように、
しずしずと衣擦れの音をさせて内裏へと向かっていった。
佐為とヒカルの横を通り抜けざまに、菅原がささやく。
「涼しい顔をしていられるのも今のうちですぞ、佐為殿」
また、なぜか座間はヒカルの耳元にわずかに顔を寄せて、
こう言った。
「佐為殿には頼れないような困ったことがおきたら、儂のところに
来るがよい。力になろうぞ」
(誰が、おまえなんかに!)
ヒカルが精一杯の虚勢をはって、座間をにらみ返す。
その時、佐為もヒカルも、それは二人のただの負け惜しみ、
捨て台詞だと思っていたのだ。
――そうでないことは、後になって嫌というほど、わからされたが。
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座間一行の背を見送ってから、佐為は、ヒカルの手を引き、
近くの控えの間に引き込んだ。
「な、なんだよ、佐為!」
「いいから」
部屋の隅にヒカルを押し込むと、佐為は固く握られたヒカルの手をとった。
強ばったようにきつく結ばれたその手の指を、佐為はゆっくりと、
一本一本、引きはがしていく。
そのヒカルの手のひらは血まみれだった。
ヒカル自身がそれを見て、息を飲んだ。
座間や菅原と対面する緊張のあまり、強く握りしめられた手の爪が、
皮膚を破っていたのだ。
気がついたら、急に傷がズキズキと疼いてきた。
佐為が、少し身をかがめて、こつんとヒカルの額に自分の額をあてた。
「よく我慢しましたね」
それが、傷に対してのものなのか、座間の前から逃げ出さなかったことに
対してのものなのか、ヒカルにはわからなかった。
佐為はヒカルの血に汚れた手を取り、自分の口に持っていく。
そして、その舌で手のひらと指についた血を、丁寧に舐めとっていった。
昔、子供の頃転んだときに、自分のひじや腕の擦り傷を舐めてくれたお母さん
みたいだなぁ、と思いながら、ヒカルはその光景をながめる。
なのに、佐為の、形のよい唇が口付けするように、自分の指をたどり、
手のひらに新たな血がにじみ出るのをすするのを見ているうちに、
こんなにも体が熱くなるのはなぜなのだろう。
かくんとヒカルの膝から力が抜けた。そのヒカルをあわてて佐為がささえる。
佐為の、指へのゆるい接触だけで、立っていられないほど感じてしまったヒカルは、
顔を真っ赤にして佐為にしがみついた。
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「大丈夫ですか?」
佐為が問うのに、ヒカルは黙って頷いて答える。
しがみついたそのヒカルの手で、佐為の白い狩衣が、わずかに血に染まった。
「ごめん……」
小さな声でヒカルがあやまる。
「何言ってるんですか、こんな服の汚れくらい…」
「ちがう!」
ヒカルが、わずかに紅潮したままの顔をあげた。その瞳は、与えられた熱に
うるんで、ひどく扇情的だと佐為は思った。
「ちがうんだ……オレ、佐為の警護役なのに、何にも出来なかった、
動けなかった……だから……」
――本当なら、あの座間の手の者が太刀に手をかけたとき、一歩前に出て前に立ち、
佐為を守る事こそが自分の仕事だったはずだ。だが、その時ヒカルは、座間の視線に
怖じ気づいて、一歩も動くことができなかった――それをヒカルは謝っているのだ。
佐為はふんわりと笑った。
「ヒカルがあやまる必要はないんですよ」
「でも…、」
ヒカルが(え?こんなとこで?)と思ったときにはもう、唇を塞がれていた。
しばらくして、佐為が唇を放していう。
「本当にヒカルが謝る必要なんてないんです。私は、今も充分ヒカルに守って
もらってますから」
「だからって、おまえ…、こんなとこで……」
「大丈夫です。いやならね、ほら、こうして」
そう言って、佐為は笑いながら片腕をあげ、狩衣の白い袖で、二人の顔を廊下から
見えないように隠してしまう。
「こうしておいて、誰かに見とがめられたら、目のゴミを取っていたと言えば
いいのですよ」
「大人って……」
言いかけた、ヒカルの口を、再び佐為の唇が塞いだ。
ヒカルがあきれるほど、長くてやさしい口付けだった。
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