誘惑 第三部 4
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地下鉄は空いていてすぐ座れた。ヒカルはリュックからさっきの棋譜をもう一度取り出して眺め、
アキラの打ち筋を辿っていたが、ふとそこから目を離し、碁盤の向こうのアキラを思い浮かべた。
最初はオレはたった一人の「塔矢アキラ」しか知らなかった。
最善の一手を追求する厳しい、真剣な眼差し。そして同じように真剣な目で、怒って、オレに怒鳴り
つける塔矢。真面目で、真剣で、碁の事しか考えてない、オレはそんな塔矢しか知らなかった。
でも、オレは塔矢を好きになって、オレの中にはどんどん色んな塔矢が増えていった。
キレイに優しく笑ったり、オレの言った事に照れて赤くなったり、ちょっと拗ねてみたり。寂しそうに、
頼りなさそうにオレに縋りついて見上げたり、そうかと思えばオレを食い尽くしてしまいそうに目を光
らせたり。オレの中には色んな塔矢がいる。オレしか知らない塔矢がいる。全部オレの宝物だった。
でも、もうそんな塔矢をオレは失くしてしまったんだろうか。
もう、前みたいには戻れないのかもしれない。
忘れるしかないのかもしれない。
そもそも、あんな事があったのが何かの間違いだったのかもしれない。
それでも、オレと塔矢は離れられない。いや、オレは塔矢から離れられないんだ。それでも追い続
けてしまうんだ。だってオレは碁打ちだから。同じ碁打ちとして、「塔矢アキラ」の碁に憧れずに、追
わずになんていられない。
それにきっと、そんな事を考えなくても、望むと望まざるに関わらず、オレは塔矢と向かい合う。
それは組み合わせ抽選なんて無粋なものの結果として。
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