失楽園 4 - 5


(4)
「進藤じゃないか。学校はどうした」
一人で碁盤に向かっていると、低い声が頭上から聞こえてきた。ヒカルがくるりと振り向くと、
そこには白いスーツを着た緒方が立っていた。ヒカルは眉を顰める。
「高校に行ってない訳じゃないだろう?」
「今日は午前中でオワリだった」
幾分つっけんどんな言い方になるのは仕方がなかった。しかし、その答えに納得したのかは判ら
なかったが、緒方は軽く頷いた。そしてヒカルに許可を得ることもなく向かい側の椅子に腰掛ける。
足を高く組み、ヒカルが気がついた時には既に煙草に火を点けるところだった。
目を細めて実に美味そうに煙草を燻らす。薄い唇が僅かに開き、ゆっくりと煙が吐き出された。
「そういえばこの時期は――中間考査か。終わったのか」
たなびいてくる煙を避けながら、今度はヒカルが頷く番だった。思い出したくもない2日間が
終わり、ようやく落ち着いてアキラと向かい合える。そう思うと居ても立ってもいられず、学校から
直接碁会所へやってきたのだ。
まだ3時にもなっていない時間だった。アキラが先に来ているとは思わなかったが――それにしても
よりによってこの緒方が来ているとは。ヒカルは碁笥の中で石を掴んでいた手をしぶしぶ引き抜いた。
「その顔は、――あんまり勉強はできないクチか。まぁ中学校の時から仕事してりゃ、勉強なんかどう
でもいいと思うだろうが、多少は無理してでもできる時期にやっとけよ」
まだまだ無理のできる年齢なんだからな。緒方はそう言って笑うと、手を伸ばしてヒカルの前髪を
クシャリとかき混ぜた。煙草の匂いと、甘い柑橘系の香りがふわりとヒカルの鼻をくすぐる。
(塔矢――――)


(5)
ヒカルは目を閉じた。煙草の匂いはアキラを思い出させる。否、緒方の存在そのものがアキラを
彷彿とさせるのかもしれない。
自分を抱くアキラ、そのアキラを抱く緒方――その図式がヒカルの頭の中で出来上がってしまっていた。
僅かに身体を退いたヒカルをどう思ったのか、緒方は眼鏡のフレームを中指で押し上げる。
「……。少し急がせるかもしれんが――一局打つか?」
「え…今から?」
ヒカルは目を輝かせた。佐為が消えた今、以前のように『圧倒的に強い』打ち手と打つことは少なく
なっている。互いに切磋琢磨するアキラとの対局とは違い、圧倒的な力の前で自分がどこまで打てるのか
――それを無性に知りたくなることがヒカルには度々あった。
「ああ」
相手は複数のタイトルを持つトップ棋士だ。しかも酔っていたとはいえヒカルに一度敗北している。
その上アキラとのこともある。緒方が今回は全力でヒカルに挑んでくるだろうことは容易に予想できた。
「打つ! 打ちたいっ!」
ヒカルは急いで碁盤の上に置いていた石を片付けた。
「早碁はできるな? 打ち終わったらメシ食いに付き合え。少しバタバタしてて昼食を摂り損ねたんだ」
「不健康な生活してんなァ緒方先生」
緒方は口の端を僅かに吊り上げて笑い、白石の入った碁笥を引き寄せた。
「さァ、はじめようか」
「お願いします」
互いに頭を下げる。改めて正面から見詰め合うと、ヒカルを見つめる眼鏡の奥にある切れ長の目は
もう笑っていなかった。



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