番外編2 冷静と狂気の間 4 - 5
(4)
明るくラーメン屋を出たヒカルだったが、本当は不安を二つ抱えていた。
ひとつは明日の記録係がうまくやれるかどうか。最初は和谷に教えられて
もできるわけないと思った記録係の仕事だが、何度かこなすうちにそれな
りに務まるようにはなってきた。しかし、明日は初めてのタイトル戦の記
録係だ。タイトル戦を間近で見られるという利点はあるが、緊迫する対局、
失敗しないか自分でも自信がない。
もうひとつの不安は、その場に出てくるのが桑原本因坊だということだ。
桑原からは先日も怪しい誘いを受けた。その時はなんとか逃れたが、今晩
また声を掛けられたらなんといって断わればいいんだ。こんな時、塔矢が
そばにいてくれたらいいのに。急に心細くなってきた。
本因坊戦の会場となる温泉ホテルの前で、ヒカルと俊彦は再会した。
「あれ、さっきのお兄さんじゃん。どうしたの。」
「お前こそ、こんなところになんか用事でもあるのか。」
「オレは明日、本因坊戦の記録係でさ。」
――えっ、こんなガキが…もしかしてプロか。まだ子供だろ。
俊彦は唖然とした。
「お兄さんはなんの用?観戦なら明日でしょ。」
「桑原本因坊に会う用事があるんだ。」
「なんだそうなんだ。そのうち来ると思うから、ロビーで待ってたらいい
よ。関係者の打ち合わせが6時からだから、もう少ししたら来るんじゃな
いかな。荷物、部屋に置いたら一緒に待っててあげようか。」
――助かった。目の前のヤンチャなガキが天使に見えてきた。
2人でロビーで碁を打った。もちろん、俊彦の九子置きだった。
――子供のようでもさすがプロだ。大したもんだな。
「あっ、桑原先生だよ。」
振り返ると、「週刊碁」でみた老人が入ってくるところだった。
「おう小僧、記録係でもやるのか。」
「はいッ。よろしくお願いします。えっと、それで、この人が先生に会い
たいって。」
ヒカルは俊彦を引き合わせると、姿を消した。
桑原が俊彦を見た。
「どこぞで会ったかの?」
「いえ、友人の代理で来ました。先日あなたに料亭につれこまれた嘉威の
友人です。」
いくぶん目を細め、桑原は改めて俊彦を見た。
「ふむ。ワシはこれから打ち合わせがある。遅くなるから部屋で待ってい
るがよい。その後で酒でも飲むか。」
「あなたと酒なんか飲まない。なにを飲まされるかわかったもんじゃない
からな。」
「ふん。まぁよい。とにかく部屋で待っておれ。なんなら温泉につかって
いてもよいぞ。」
フォッフォッフォッとわざとらしく笑うとフロントから鍵をもってきて、
俊彦に手渡した。
(5)
迷ったが、あまり長い間ロビーにいるわけにもいかず、言われた部屋で桑
原を待つことにした。504号室。次の間のついた贅沢な造りの和室が本因
坊に用意されていた。鍵を預かっていたので、ドアは細めに開けておいた。
時間がかかるとはいったが、待てども待てども桑原は戻ってこない。9時
を過ぎるあたりまでは覚えていた。しかし、昨夜の睡眠不足と長旅の疲労、
そしてこれまでの緊張が次第に俊彦の意識を蝕んでいった。いつしか座卓
にもたれ、深い眠りに引き込まれていた。
口の中に何かを押し込まれる違和感に意識が戻った。咥えさせられている
のはタオルのようだった。気づくと、前方に投げ出した俊彦の両手首は、
浴衣のものらしい紐で固く結わえられている。桑原の仕業であることは瞬
時に理解した。
――しまった。俺はジジイを甘く見ていた。
幸いまだ足は自由だった。背後の桑原をつきとばすと、俊彦は逃げ道を求
めた。だが、ドアに通じる襖は閉じられていた。意外と重い。足で引き開
けようとしても思うように動かない。体を起こした桑原が、薄気味悪い笑
みを湛えながらジリジリと迫ってきた。
「う、う、うぅぅ」
牽制のため発した声は、タオルのせいで言葉にはならず、獣のようにしか
響かなかった。睨み合いが続く。近づく桑原に足蹴りで対抗する。
――ジジイの狙いはわかった。嘉威の二の舞になるのはゴメンだ。でも、
どうやったらこの部屋から出られるんだ。
暗澹たる思いを抱きながら、俊彦は遮二無二足を前に蹴り上げた。しかし、
縛られた両手を頭上に上げたなさけない格好ではむやみに足で防御しても、
限度があった。次第に息が上がり、肩が激しく上下に揺れ始めた。力なく
上げた左足を引かれると、俊彦はたやすく転がった。疲弊した両足の上に
桑原と絶望的な運命がのしかかってきた。
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