蛍 4 - 6
(4)
「塔矢……」
タバコを口元から放し、彼は僕の名前を読んだ。
僕の内で燻っていたものがちろりと、赤い舌を覗かせる。
「進藤、なんでこんなところに?」
「あ…、森下先生に呼ばれて……」
そうだった。今回の対局の解説者は、森下先生。進藤はその門下生だ。後学の為にと、師匠が弟子を呼ぶのはよくあることだ。
「だが、昨日は姿を見なかったと思ったが?」
「昨日は指導碁が入ってたんだ。それより、塔矢こそ、なんでこんなとこに? 今頃、祝杯あげてるとばかり思ってたぜ」
「進藤、酒も煙草もはたちを過ぎてからじゃなかったかな?」
進藤は肩を竦めると、持参してきたらしい携帯灰皿で、煙草を揉み消した。
「ナイショな?」
「いいだろう。貸しひとつだな」
「チェッ」
僕は煙草は吸わないが、酒は嫌いじゃない。周囲の目もあるので、自重しているだけだ。僕たちが成人するまで、まだ間がある。十代で手に入れたタイトルは、ほんの少しだけ僕たちを不自由にする。
「塔矢……、本因坊おめでとう」
「ありがとう」
「いい碁だったな」
「……君にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
(5)
プロになって三年もしないうちに、進藤が本因坊秀策に傾倒していることは、周知の事実となっていた。
事の発端は、倉田さんだった。
プロ入り後の長期間の不戦敗が原因で、年配の人や協会関係者の中に進藤を快く思わない人は随分と多かった。
勝負の世界では、結果がすべてだから、進藤が勝ちを重ねていくうちに、そう言った人たちの聞き苦しい言葉も下火にはなっていったが、
勝ちが続けば続いたで、醜い妬心を忠告という便利な言葉で押し隠し、やはり進藤を悪く言う人もいた。
そんな人たちは、倉田さんが進藤を買っているような発言をするたびに、彼は信用ならないと過去の不戦敗を俎上にあげるのだ。そんな彼らに、倉田さんは笑って言った。
自分が進藤を侮れないと思ったのは、それ以前のことだから、と。あの不戦敗の前から、自分は進藤を買っているのだと。
なぜと尋ねられると倉田さんは、進藤とはじめて言葉を交わしたという、とあるイベントでのエピソードを面白おかしく話すのだった。
その話を聞いた人は、筆跡の真贋さえわかるほど、進藤が本因坊秀策を研究しているということに驚いたのだろう。そして意地の悪い人が、君は秀策に詳しいらいねと、水を向けたことがきっかけで、進藤が秀策の棋譜をすべて諳んじていることが明らかになった。
日本人というものは、隠れた努力というものを尊ぶところがある。
400近い棋譜を諳んじるには、並大抵の努力では足りないだろうと、周囲の進藤を見る目がたしかに変わった。
プライベートでも彼と打つ僕だからこそわかるのだが、それは美しき誤解というものだ。
棋譜を覚えるという点に関して、彼は努力など必要としない。
なぜなら、彼は一度見ただけで、覚えてしまうからだ。
それは、進藤の異常なまでの集中力があってのことだ。
彼の能力の高さを褒め称えるなら、まずこの集中力について言及するべきだと、僕は常日頃思っているのだが、普段が普段なので、記憶力ばかりがクローズアップされている。
進藤が正当に評価されるまでは、まだ時間が要るのだろう。
(6)
それはともかくとして、進藤が本因坊秀策に拘っているのは確かだ。
実際、彼の口から聞いたことがある。
本因坊と碁聖のタイトルが欲しいと。
本因坊はわかるが、なぜ碁聖? と、訝しく思っていたのだが、秀策が道策とともに二大碁聖と呼ばれていたことを思いだし、そこまで拘っているのかと驚いた。
「俺も、おまえが本因坊で嬉しいよ」
ふわりと舞い上がった蛍が、進藤と僕の間を横切っていく。
淡い光が、進藤の一瞬の表情を、暴き立てる。
進藤が、続ける。怖いほど鋭い視線をひたち据え、聞かせる。
「これで……塔矢アキラから本因坊を奪える」
僕の全身に粟が立った。
苦労して鎮めようと足掻いていたのに、進藤に煽られて、身の内に燻る火が赤々と勢いを取り戻していく。
「奪えるものならね」
熱に浮かされたように、僕は呟いていた。
今日、僕がどれほど君と打ちたかったか、君にはわからない。
「挑戦者が君であることを、僕は祈っているよ」
進藤が僕の腕を掴んだ。
布ごしに感じる、汗ばんだ掌の、熱。
煽られる。
煽られて、燃え上がる。
「今の言葉、絶対後悔させてやる」
そう言って、進藤は顔を寄せてきた。彼がなにをするのか、僕はわかっていたと思う。
わかっていながら、拒む気にはなれなかった。
進藤が僕の口に齧りついてきた。
そうだ。齧りついてきたんだ。
キスなんて、可愛い言葉は似合わない。
もっと獰猛で荒々しい、これはキスじゃない。口付けじゃない。
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