黎明 4 - 6


(4)
神様に怒られるのが怖いと、その人は言っていた。
だが彼は神など怖くはなかった。何よりも大切な人をある日突然奪われる恐怖に比べたら、恐
れるべきものなど何があったろう。神の怒りも、神の下す裁きも罰も、怖くはなかった。
いや、いっそ罰されたかった。許しよりも懲罰を。
誰よりも大切なあの人をみすみす失ってしまった自分自身に対して、何らかの罰が必要である
と、彼は感じていたのかもしれない。だから彼は神の怒りをかうような事を、進んで重ねていった
のかもしれない。それともむしろ彼自身が神に対して怒りを感じていたのかもしれない。
ならば彼の行動は神の無情への抗議か、挑発か。
だがそんな怒りも、今ではもはや甘い闇の向こうに遠く霞んで。

そして今、彼を襲う恐怖は寒さだった。
どれほど暖めても、温もりを感じる事ができなかった。
冷えて黒く固まった心を、暖めて溶かして欲しいなどと思いはしなかった。ただひと時、ぬくもりを
感じられればそれだけでいい。それ以上は欲しくない。初めはそう思っていた。
だが、甘い夢を見せる香はその代償として身体が震えるほどの寒さを彼にもたらした。香の見せ
る夢にまどろんでいる間はいい。けれどひとたびその香りが途絶えると、彼の身体は耐え切れぬ
ほどの飢餓感と、絶望的な寒さに襲われた。そしてそれを治めるための香を得ても、身体の芯か
ら冷え冷えと漂う空虚な闇は、やはり彼からぬくもりを奪ったままだった。
もはや彼を暖めるのは直接に肌に触れる人肌の温もりだけだった。だがそれも触れているその時
だけで離れてしまえばまた、同じような寒さに震える。けれどそれでも、何も無いよりは、例え一時
だけでも構わない。それなしには自分の生命さえ保てぬほどに、彼は人肌の温もりを欲した。
「寒い。」
小さく呟いて身体を震わせる。
呟きながら、この身を暖めてくれる誰かが来るのを待っていた。


(5)
また、誰か来た。
それが誰であるかもわからずに、彼はいつものようにその人の首に腕を絡ませ、唇に唇を重ね、
その人の体温を確かめるように身体を摺り寄せる。
だが、その人の反応はいつもとは違った。
いきなり身体を突き飛ばされてもまだ彼はぼうっとしたまま、焦点の定まらない目で、その人物を
見あげた。見下ろす視線が、黒く光る一対の眼光が、甘い闇を切り裂くように彼を射た。
「僕がわからないのか?」
鋭い声が彼を責める。反射的にその光から逃れようとしたが、両手で肩を掴まれていて、逃げる
事はできなかった。いや、彼の身体に、逃げ出すだけの力は、残されていなかった。
「だれ…だ…よ…」
口を利くのは久しぶりで、思うように舌が回らず、途切れ途切れにしか話せない。
「近衛!」
近衛、だって?そんな名はもう捨てた。彼を守りきれなかった自分に、今更守れるものなどない。
「誰…だ、よ……知らねぇよ、おまえなんか…!」
折角最近では忘れていられたのに、なんで今更思い出させようとなんてするんだ。
出てけ。おまえなんか知らない。おまえなんか呼んでない。
「なぜ、こんな所で、こんな事をしているんだ…!」
「な…んだよ、おまえになんか、関係ぇねぇよ…、どうでも…いいじゃねぇか、そんな事…」
そう言いながら目の前の身体に抱きつき、袂から手を差し入れ、裸の肌の温もりを求めた。けれ
どその身体は彼の望む温もりを与えようとはせず、彼の身体を引き剥がした。
「やめないか!」
「なんだ…よ、何しに…来たんだ…、俺を…暖っためてくれるんじゃなかったら、こっから…
出てけ、よ…!」


(6)
「どうぞ手荒になさいませぬよう。」
彼をこの部屋へと案内した女房が、香炉を手に低く声をかける。そこから広がる甘い香りが一段
と濃密に室内を満たすと、少年の目はまたとろりと溶けて甘い香の闇に沈んでいった。彼はその
女房を睨みつけたが、彼女はその視線をやんわりと受け流し、「どうぞごゆるりと」と、不気味な笑
みを残して消えていった。

何もかもを甘く包み込むような濃い香りの闇をじんわりと照らす小さな明りの元で、香のもたらす
まぼろしに心を奪われた少年を、信じられない、という思いで見つめる。
ふっくらと可愛らしかった頬はこけ、顎は細くとがり、健やかな血の色を失って窶れ果てたその顔
は、どこか淫靡であった。大きな瞳は憂いに満ち、甘い香の効果に焦点の合わないその眼差しは
妖艶ですらあった。ほっそりと白い首が少女めいた面差しを支え、すっかり肉の落ちた肩は薄く、
腕は細く、これがかつて剣技の冴えを称えられた、幼くとも勇敢な少年検非違使と同じ人間である
とは、俄かには信じがたいほどであった。ましてやその彼が、魔の香に囚われ、相手構わず肌の
暖かさを求める程に堕ちていようとは。

少年のその様子に、耳に入った噂がほぼ真実に近かった事を思い知らされて、暗澹たる思いで
彼は横たわる少年を見つめた。ここまで堕ちてゆくに足る程の彼の絶望を、苦しみを思い、また、
彼をこれ程の闇に追い落とした人物の儚さを嘆いた。そして、彼がこれ程までに苦しんでいた時に
傍にいてやる事もできなかった自分の無力さを、彼は呪った。
そうして束の間、痛ましい眼差しで少年を眺めた後に、彼は意を決したように眦をきりりと上げて立
ち上がった。



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