平安幻想秘聞録・第三章 4 - 7
(4)
翌朝、せっかく朝市で仕入れた上がったばかりの魚が並んだ朝餉の席
だというのに、佐為の表情は険しかった。その機嫌の悪さは、正面に座
したヒカルが音を立てて汁物をすするのも憚れたほどだった。
「佐為、あのさ。その眉間にシワを寄せるのは、やめといた方がいいぞ」
「あぁ、すみません」
そこでいったんは笑顔を作る佐為だが、ほんの数分も持たない。昨日
の夜からずっとこうなのだ。ヒカルは思わずため息をつきたくなった。
「えーと、佐為さ。とりあえず何もなかったんだし、そんな顔するなよ」
「確かに昨夜は何もありませんでしたが、これからも何も起こらないと
は言い切れませんから」
こと囲碁に関して以外は、どこか解脱している感がある佐為が、ここ
まで気分を害しているのにわけがあった。
もう夜も更けましたからと、退出を匂わす度に、宴の主催者である女
主に何やかやと理由をつけられて引き止められた。普通、帰るという者
を無理に留めるのは粋でないとさせるものなのだ。
嫌な予感がした佐為は、最後の手段とばかり仮病を使って宴をやっと
抜け出し、屋敷に戻って来ると、裏門に見慣れぬ網代車が置かれている
上に、二人いた門番が前後不覚に陥っていた。
これは何かただならぬことと、ヒカルの寝室のある東の対屋(たいの
や)に急いでみれば、小袖を半分はだけかけられたヒカルの姿があった。
その上にのし掛かる男らしき影に、武芸の心得もない佐為が腰を抜かさ
なかったのも、ひとえに我が身よりヒカルの身を案じたからだ。
男と対峙した佐為は、ただ一言こう言い放った。
「今宵は月も出ておりませぬゆえ、向かう先を間違えることもありまし
ょう。私は何も見なかったことに致しましょう。すぐにここより立ち去
られてはいかが?」
(5)
これを聞いて、男はヒカルを名残惜しそうに見つめながらも、何も言
わずに立ち去った。
「佐為、かっこ良かったな。オレ、見直しちゃったよ」
「すぐに相手が誰が分かったからですよ。あの方が私に危害を加えると
は思えませんでしたから」
ほっとした佐為が自分をひしっと抱き締めたとき、ヒカルは既に意識
が戻っていた。ただ、身体が思うように動かず、逃げることも抗うこと
もできなかっただけだ。
自分に触れているのが佐為ではないと、ヒカルにはすぐに分かった。
触れ合う肌の感触に違和感を覚えたせいもあったが、衣に焚きしめた香
の匂いが違っていたからだ。
佐為には佐為の、明には明の、それぞれ好む香りがあることに、ここ
数週間でヒカルも気がついていた。現代のように気軽にシャワーや風呂
に入り、衣を洗濯することができない平安の世では、臭い消しの役目も
兼ねて、折々の季節に合わせた香を焚きしめるのは貴族の嗜みのような
ものだった。
「あれ、やっぱり東宮だったんだ」
「おそらく・・・」
佐為もはっきりとは顔を見ていないし、直衣も普段見慣れた黄丹では
なかったが、背格好といい立ち振る舞いといい、まず間違いないだろう。
男に夜這いを駆けられるとは、ヒカルにとっては踏んだり蹴ったりと
いう程度のことだが、佐為は別に心配ごとがあった。
それは、東宮にヒカルが佐為の元にいる事実を知られており、他にも
彼の息のかかった者が屋敷内に紛れ込んでいる可能性があることだった。
「あのさ、そういや、昨夜の女房って、どうなったの?」
ヒカルや門番に一服盛って、眠らせた女房のことだ。
(6)
「可相想ですが、暇をやることにしました」
これが弱みを握られて脅かされていたというのならともかく、袖の下
を掴まされ、主人を裏切る行為を働くのは、お館勤めをする女房なら決
してやってはいけないことだ。万が一、門番が役に立たないのを見て、
夜盗にでも押し込まれてでもいたら、どうなったことだろう。佐為は次
の勤め先への紹介状を書くつもりもなく、ツテもない彼女が別の屋敷に
召し抱えられる可能性は、限りなくゼロに近い。
「ここまで厳しく罰することもないのかも知れませんが」
珍しく佐為は本気で怒っているようだ。東宮が自分の屋敷の者を使い、
ヒカルに不埒な真似をしようとしたことが、余程腹に据えかねているら
しい。
「春の君が、こんなに光に執着してるとは思いもしませんでした。昨夜
の失態に懲りて、諦めてくれると良いのですが」
「そうだな。あれじゃオレもおちおち熟睡してられないもんな」
「えぇ。早急に藤原行洋さまに会見をお願いしようと思っています」
「でも、忙しいんだろ?」
「お忙しいのは分かっていますが、光の貞操の危機には変えられません」
貞操って何だ?とぽけっと見返したヒカルに、佐為が思わず苦笑した。
見かけは見目麗しき公達だというのに、こういうことに関してはヒカル
はひどく疎く、幼いとさえ言える。だからこそ、つい保護欲が刺激され
て放っておけないのだ。
「朝餉が終えたら、行洋さまからの返事を待つ間に一局打ちましょう」
にっこりと微笑む佐為に、ヒカルもつられて笑顔になる。佐為はやっ
ぱり碁を打てるときが一番楽しそうだな。
が、その日のうちに行洋からの返事はなく、一夜明けてもたらされた
知らせに、佐為とヒカル、そして数日ぶりに屋敷を訪れていた明は愕然
となった。
(7)
「えー、嘘だろ!?」
「嘘だと、私も思いたいのですが」
「・・・はぁ(ため息)」
行洋からの使者と文は、三者三様の反応をもたらしていた。
「賀茂!お前も嘘だって思うだろ?」
「だが、わざわざ藤原行洋さまが偽りの文を寄こすとも思えない」
「でもさぁ」
ヒカルがあまり大声で嘘と連呼するものだから、行洋からの文を携え
て来た従者(ずさ)の頬がピクピクと引きつっている。だが、今はそん
なことを気にしている場合ではなかった。
達筆過ぎてヒカルには読めない文には、近衛光の生還をお聞きになり、
帝がすぐに参内するようにと仰せられている。しからば、とりもとりあ
えず早急に参上されたしと書かれているらしい。
「近衛って、帝と会えるような身分じゃないんだろ?」
「それは、光が京の妖しを倒すのに一役買った、功労者だからですよ」
「京の妖しって、佐為と賀茂と一緒にやっつけたっていう、桑原のじー
ちゃんそっくりな妖怪のことだよな?」
「えぇ」
平成の世での、いや、桑原本因坊は昭和生まれだから、昭和の世なの
かはともかく、どこか得体の知れないところのあるかの老人が、妖怪だ
と聞かされてもヒカルは驚かなかった。千年も昔の幽霊であった佐為を
ありのままに受け入れていただけはある。
「どうしても行かなきゃダメなのか?」
「そうですね。この文によると、光のことを耳にして、当初、帝はたい
そうご立腹だったそうですから」
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