sai包囲網 4 - 7
(4)
佐為にネット碁を思い切り打たせたことを後悔してない。好きなだけ
碁が打てて、零れんばかりの笑みを浮かべる佐為を見ているのは楽しか
った。ただ、純粋に佐為に碁を打たせてあげたかっただけ。
その結果、saiがネット上だけではなく、多くの棋士にその存在を
追われていることも、アキラに言われるまで気がつきもしなかった。騒
ぎが大きくなり過ぎて、佐為にもうネットでは打たせてあげられなくな
ったことだけが残念だった。
塔矢名人との一局もそうだ。自分がsaiに関わりがあると知られる
危険を承知の上で、名人に対局を申し入れ、承諾を貰えたときは自分の
ことのように嬉しかった。
そこまで思いを巡らせて斜め上の佐為を見る。期待に反して佐為は眉
を顰め、何かを耐える表情を浮かべ、こちらを見てはいない。
佐為・・・。
「進藤」
「えっ?」
「僕の話を聞いてた?」
手を取られたまま、覗き込むようなアキラに意識を目の前に戻す。
「あっ、ごめん。本因坊のじーちゃんのこと、だったよな?」
「そう。桑原先生がね、お父さんとの一局、君が自分にハンデを背負わ
せて打ったと言ったんだ。僕はそのとき、タイトルホルダーのお父さん
相手にまさかと思ったけど、今はね、それを信じる気になったよ」
「な、何で?」
「saiとの一局を見たから」
「saiとの、一局?」
「対局の間中、ずっと君を思い出してた。最初に会ったときの君、次に
一刀両断された一局、そして、その後見た、囲碁大会での一局。すべて
がsaiに繋がってる」
「でも・・・でも!俺は、saiなんて知らない!」
ヒカルはアキラの手を振り払った。
(5)
「知らない?」
「知らない!」
「じゃあ、さっき緒方さんに何を問い詰められていたの?」
「えっ、それは・・・」
緒方はヒカルと塔矢名人がsaiのことを話していたのを知っている。
アキラと緒方は同門だ。緒方がsaiに拘る理由は分からないが、二人
が今日のことを話す機会はいくらだってある。ここでうまく誤魔化して
も追求の手が伸びるのが後回しになるだけだ。
「えーと」
向かい合う自分とアキラ。二年前、ネットカフェの前で別れたきり、
それ以来、こんなふうに近くに立つことはなかった。
「もう君の前には現れない」
そう言って自分に背を向けたアキラ。あんなに冷たい目をして、去っ
て行ったのに。棋院で顔を合わせたときも、すぐに視線をそらして部屋
から出て行ってしまったのに。
saiが関わらない自分には、まったく興味がなかったくせに・・・。
急にあのときの悲しさ、悔しさが舞い戻って来て、ヒカルは視線を上げ、
アキラを睨み返した。
「昨日、俺も塔矢先生とsaiの一局を見たんだ」
どこで?とは訊かず、アキラは頷いた。
「それで?」
「すごい一局だったから感動して、それを塔矢先生に言いに来ただけだ。
緒方先生は勘違いしてるんだよ。俺がsaiって言ったのをちょっと聞
きかじったらしくて・・・」
そこで切って、ちらりとアキラの様子を窺うが、その表情から自分の
話が有利に伝わってるかは判断できない。仕方なく、ヒカルは続けた。
「緒方先生が、怖い顔して追いかけて来るから、つい逃げちまって」
「たったそれだけで、あの緒方さんが君を追いかけたっていうのは納得
がいかないな」
「それだけもこれだけもねぇーよ。嘘だと思ったら、塔矢先生にでも緒
方先生にでも訊いてみろよ」
(6)
「緒方さんのことは分かった」
「だったら・・・」
「僕も訊きたいことがあるんだけど」
「えっ?」
これで解放されると思ったのに、まだ何があるっていうんだ?ヒカル
の不満そうな表情に、アキラがふっと笑った。
「な、何だよ」
「ここでは何だから、うちに来ないか?」
「うちって、塔矢んち?」
当たり前だろと頷くアキラに、ヒカルは腰が引けて来る。
「でも、お前だって、塔矢先生の見舞いに来たんだろ?」
「お父さんのことなら心配しなくていいよ。今日、退院なんだ」
午前中の検査が終わってからだから、あと五時間くらいかかるけどね。
そう続けられる。
「いや、だけどさ・・・」
「これから見舞の客も増えるだろうから、こんなとこに子供が二人立っ
てたら、目立つだけだよ。僕はかまわないけどね」
困るのは君だよ。そう言われたような気がして、ヒカルは助けを求め
るように視線を斜め後ろに流した。今度は佐為もこちらを見ており、痛
ましそうな表情で口元を押さえている。
『佐為、どうしよう・・・』
『塔矢の、家には行かない方がいいと思います』
『だよな。でも、ここにいて、また緒方先生に見つかったら』
ちらりと視線を投げた先には、目立つ真っ赤なRX−7が陽光に輝い
てる。いつ用を済ませた緒方がここにやって来るか分からない。
さすがに二対一で問い詰められたら、ヒカルのついた嘘など理詰めで
看破されてしまうかも知れない。
「分かった。お前のうちに行くよ」
(7)
初めて敷居を跨いだ塔矢アキラの家は、予想通りの壮麗な日本家屋で、
そして予想以上に広かった。こんなところにたった三人で住んでるなん
て詐欺じゃないかと、ヒカルでなくても思ってしまうだろう。
ここへ来るまでの間、アキラは取り立ててヒカルに探りを入れるよう
なこともせず、思い出したようにたわいもない話を振って来た。それは
ほとんどが囲碁のことばかりだったが、アキラに連れられて電車に乗る
という、二度目の対局と同じシチュエーションに背中に嫌な汗をかき始
めていたヒカルはややほっとし、あーあの手はおもしろいよなーと唯一
と言ってもいい共通の話題に応じた。
そして、佐為はといえば、ここに着くまではじっと押し黙っていたが、
あの塔矢名人の住む家に興味を引かれたのか、何かを探すように視線を
彷徨わせている。
『佐為、少しはじっとしてろよな。きょろきょろされたら気になるだろ』
『すみません、ヒカル。何だか落ち着かなくて』
『オレだって落ち着かねぇよ。こんなでかい家でさぁ』
囲碁を始めるまではまともに正座をしたことがなかったのだ。アキラ
がお茶を入れて戻って来るまでの間、一人ぽつんと広い和室に残され、
あまりに場違いな自分に座った尻がむずむずして来る。アキラの追求を
かわす作戦を練るよりも、こっそり帰ってしまおうかとすっかり弱気に
なって来たところに、やっとアキラが戻って来た。
「待たせてすまない。和菓子は嫌いじゃないよね」
「あっ、オレ。基本的に好き嫌いはないからさ」
「あぁ、そんな感じだね」
くすっと笑ったアキラに少しだけヒカルの気分も浮上した。
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