夜風にのせて 〜惜別〜 4 - 7
(4)
四
「このマフラー、ひかるさんの手作りですか?」
「手作りってすぐわかってしまいます? …私不器用でうまく編めないんですよね」
ひかるは恥ずかしそうに俯いた。
「あの、よかったらこのマフラー頂けませんか」
「ええっ? ダメです、こんな汚いの。きちんと新しく作りますから。だからこれは…」
必死に断ろうとしたが、真剣なまなざしで見つめる明と目が合い、動けなくなった。
「いえ、これがいいです。ひかるさんがずっとしていたこのマフラーが欲しいんです」
その真剣さにひかるは仕方なく頷いた。
「本当ですか? うれしい。あ、でもひかるさんのマフラー無くなってしまいますよね」
「いいんです。また作ればいいですし」
「それでは申し訳ないです。あの…交換ということで、ボクのマフラーを差し上げます。
あ、でも男が使っていたものなんて嫌ですよね」
「そんなことありません! 私も明さんが身につけていた物が欲しいです!」
突然の大声に明は目を見開いて驚いた。
「あ、ごめんなさい。私ったら」
ひかるは顔を赤らめた。それを明は微笑ましく見つめる。
「わかりました。約束しましょう」
明はそう言うと小指をたてた。ひかるはおそるおそる明の指に触れる。
二人は指きりげんまんをすると別れた。
それぞれを待つ現実の世界へと…。
(5)
五
仕事を終えたひかるがいつものように明に会いに行こうと帰る支度をしていたときだった。
控え室の扉がノックされる。返事をして振り返ると、常連客であり、体の弱いひかるの主
治医でもある医師の高橋と数人の男たちが訪ねてきた。
「ひかるさん、今日のステージも最高でした」
高橋は大きな花束をひかるに手渡す。
「わぁ、ありがとうございます」
ひかるは微笑んだ。その明るい笑顔を高橋は複雑な心境で見つめる。
「それで高橋先生、そちらの方々は?」
呆然としていた高橋は、ひかるの声で我に返った。
「あ、すみません。えっとですね、彼らはレコード会社の者でして」
男たちはよろしくと言って名刺を渡した。
ひかるは状況を理解できず、小首をかしげてその名刺を見入った。
「ひかるさん、あなたの噂は耳にしておりましたが、予想以上で我々も驚いております」
男たちはそう言うと、机の上に持っていた黒い頑丈そうなケースを置いて中身を見せた。
中にはぎっしりと大金がつまれている。
「どういうことですか、高橋先生」
大きな目をぱちくりさせてひかるは尋ねた。
「デビューですよ。つまりあなたのレコードが日本中のお店に並ぶということです」
ひかるは泪を流し始めた。単身上京し、歌手になることをひたすら夢見ていたひかるにと
って、それはようやく望みが叶った瞬間だった。
「ただし条件があります」
高橋は沈痛な面持ちで話し始めた。
(6)
六
「ここを辞めて、私と軽井沢へ行ってもらいます」
ひかるは驚いて高橋を見つめる。そして夢よりも明との別れが頭をよぎり、断ろうとした。
「ごめんなさい、高橋先生。それだけはできません」
だが高橋は、ひかるが断るのを予測していたかのように封筒を手渡した。
「中を見てください。これは以前おこなったひかるさんの診断の結果です」
ひかるは封筒から紙を取り出した。それを見てひかるは愕然とする。
「大丈夫です。この都会を出てきれいな空気のところで療養していれば、すぐによくなり
ます。私が必ず治します。だからお願いします」
高橋は泪ながらに頼んだ。
ひかるはそれを呆然と見つめた。その病気は昨年ひかるの母親を死に至らせた病気だった。
それがどれだけ重い病気か、高橋に説明されなくともひかるには理解できた。
「それで…ですか。レコードを出すというのも。それでなんですね。私が死んじゃうから、
高橋先生が頼んでくださったんですね」
高橋は無言で頭を下げた。
「…わかりました」
ひかるはそう言うとふらふらと控え室を出た。
「待ってください。どちらへ行かれるのですか」
心配そうに見つめる高橋に、ひかるは安心してくださいというように微笑みかけた。
「ちょっと…。親しい友人にお別れを言ってまいります」
そう言ってひかるは姿を消した。
(7)
七
「ひかるさん、おはようございます」
明はひかるの姿を見つけると、赤いマフラーをなびかせながら息を切らして走ってきた。
ひかるはそれを切なげに見つめる。
「これ、約束のマフラーです」
きれいな千代紙風の包装紙に包まれたマフラーを明は照れながら手渡す。
ひかるはその包みを開けた。白の肌触りのよい高級そうなマフラーにひかるは戸惑った。
身につけているものや言動から、明がよい家柄の者だとは感づいていたが、実際にこのよ
うな高級品を渡されると、自分との身分の差を感じずにはいられなかった。
明はひかるの手からマフラーをとると、ひかるがしたようにマフラーを巻いてあげた。
「似合いますよ、ひかるさん」
明は微笑んだ。ひかるはそれを見上げる。しばらく二人は見つめあった。そして明はひか
るの頬に手を伸ばすと口付けた。
「…ひかるさん、ボクはもう離れたくない。あなたのいない時間は酷く長く感じて…。あ
なたに出会わなければ、ボクは日の出がこんなにもありがたいものだとは気付かなかった。
もしボクが学生でなければ、すぐにでもあなたと共に暖かい家庭を築けるのに」
明はひかるをきつく抱きしめた。ひかるはその言葉にうれしくて泪を流す。
ほんの数時間の間に、ひかるは夢である歌手デビューと明の愛の両方を手に入れた。
けれどもひかるには、それがひかるの死を惜しむ神様からのプレゼントのような気がして
ならなかった。
「ありがとう、明さん。私幸せです」
ひかるはしばらく明に抱かれていた。
だがいつのまにか言うはずだった別れの言葉を言い出せなくなっていた。
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