身代わり 4 - 8


(4)
ヒカルがうるんだ瞳を向けてきた。
「……ん、さい……」
舌足らずに呼ぶ。それがどんなに佐為の心をかき乱すか、わかってはいないのだろう。
ヒカルがこうして甘えてくるのは、自分を信頼して安心しきっているからだ。
それが時おり佐為を苦しめる。
《……なんですか?》
「佐為は、オレみたいにはならないの?」
またこの質問か、と佐為は軽く苦笑した。答えはいつも同じだ。
《身体がありませんから》
ヒカルは濡れていない左手を佐為の下肢にやった。その無邪気な仕草に佐為は緊張する。
股間に触れてみるが、ヒカルの手は空をかいたのと同じ状態だった。
だが手を動かして揉んでみる。すると不思議なことに、本当にしている気分になってくる。
一方の佐為は、そこが変化するはずはないのに、うろたえていた。
身体をずらしてヒカルの手から逃れた。
《昔は、ヒカルみたいになったこともありましたよ》
「ふーん、じゃあ」
セックスは? そう聞こうとして、ヒカルはやめた。
いつもそうだ。どうしても尋ねることができない。理由はわかっている。
もし「ある」と答えられたら、イヤだからだ。自分だけの佐為でいてほしいのだ。
しかし、そう思ってしまう自分を嫌悪する感情もあった。
それに佐為が嫌がるかもしれない。こんな身勝手で子供っぽい独占欲など持った自分を。
(佐為にきらわれるのは、イヤだ)
少し気持ちが沈んでいるのに、佐為は能天気な声で話しかけてきた。
《さあさあ、後片付けをなさい。いつまでもそんな格好でいると身体を壊しますよ》
ヒカルは飄々とした様子の佐為に腹が立った。
(どこの世界に、オナニーの後始末を言われるヤツがいるんだ。ちぇっ)
自分ばかり変な気分になって、バカみたいではないか。
少しふてくされながらもヒカルはティッシュで汚れたところを拭いて、服も着なおした。


(5)
佐為は急にヒカルが気持ちが重くなったのを感じていた。
だが不用意にそこに立ち入ることはできない。ヒカルの心はヒカルのものであるからだ。
自分はヒカルの心のすみに住まわせてもらっているだけなのだ。その理由はただ一つ。
神の一手を極めるためだ。そう、これは千年経った今でも変わらない。
まぶたを閉じ、深呼吸をする。余計な感情は捨てなければならない。
《ヒカル》
「なんだよっ」
勢い良く顔をあげたヒカルは、押し付けられた唇にどきりとした。
だがようやくのキスをすぐにヒカルは受け入れた。
《ヒカル、大好きですよ》
なんのてらいもない言葉に、ヒカルはみるみる赤くなった。
そんなヒカルを見ながら、佐為はもう一度、心のなかで言った。誰よりも大好きだと。
けれども、自分にはヒカルよりも大切なものが、譲れないものが、ある。
佐為は決心をした。そして心のなかでヒカルに詫びた。
ヒカルは佐為を睨むようにして見ていたが、やがてほほえんだ。
「オレさ、佐為とキスするの、すごい好きだ」
ヒカルは佐為とぎくしゃくしていたものが無くなったのがうれしかった。
だが佐為はほほえみ返すことができなかった。それをごまかすようにまたキスをした。
「へへ、目が覚めちゃったよ。一局打とうぜ」
《明日、起きられなくなりますよ》
たしなめるがヒカルはもう碁盤の前にいる。
「大丈夫だよ。ほら、オレが先番な」
碁石を置く小気味良い音がした。惹かれるように佐為も座った。
結局その夜、ヒカルは眠らせてもらえなかったのだった。


(6)
シャッターの音に、ヒカルは少し緊張した。
横には五冠の塔矢行洋が立っており、圧倒されそうなほどの気を放っている。
新初段となったヒカルを、天野は興味深げに観察していた。まさかこの少年が、こんなにも
早くプロになるとは思ってもみなかった。いや、プロになるかどうかさえ、半信半疑だった。
しかしヒカルはプロになった。そしてそのヒカルを、行洋は相手に指名した。
(名人注目の新人、か……)
新初段シリーズの対局結果は、二つにわかれる。
すなわち、先を期待させる碁か、否かである。
塔矢アキラは前者であり、それにたがわない成績を残していっている。
(進藤くんはどっちかな)
そんな天野の記者の視線など、ヒカルはまったく気付かない。全身の神経はこれからの対局
に向かっていた。よって斜めうしろにいる佐為に気を払う余裕はなかった。
佐為は険しい顔をして立っていた。
「じゃあ、ちょっと軽くなにか会話をしてください」
「ハイ」
ヒカルはこくりとうなずき、行洋に向き直った。
腕組みをしながら、行洋は息子のアキラが気にしている少年を見つめた。
(会うのは、これで三度目か)
一度目は『全国こども囲碁大会』でだ。廊下でぶつかった。二度目は自分の経営する碁会所
でだった。緒方が引っ張ってきたのだ。ヒカルの実力が知りたかった。逃げられたが。
そして三度目の今日、プロとして自分の目のまえにいる。
(打てば、わかる)
無言のまま自分を見つめる行洋に、ヒカルも黙したまま視線を返した。
その様子に、周りの者たちは戸惑った。
何枚か話をしている写真を撮りたいのだが、行洋にはまったく話す気がないように思えた。
(うーん、まいったな。まあ、塔矢先生だし、しかたないかなあ……)
天野が合図を送ると、カメラマンは一礼をして下がった。
いよいよ、幽玄の間で対局するときが来たのである。


(7)
「今日は、アキラが来ている」
今まで口をつぐんでいた行洋が、ぽつりと言葉を口にした。
たったその一言に、心臓は跳ね上がった。なんと重厚な声なのだろうか。
「キミの力を見せてもらおう」
ヒカルは武者震いした。あの塔矢行洋と、打つのだ。一年前、アキラが座間王座と対局した、
あの部屋で。ヒカルはつばを飲み込み、足を踏み入れた。
だがその横を佐為がすり抜けた。そしてヒカルの座るべき席に、ためらいもなく座った。
(佐為!)
ヒカルの声を佐為は無視した。行洋と打つのは自分だ。
これは現世によみがえってからの悲願でもある。
目の前にその行洋がいるのだ。見ているだけなど、できない。
佐為の必死な面持ちを見て、ヒカルはひるんだ。しかし自分だって楽しみにしていたのだ。
なによりも、この対局はアキラが見る。
(佐為! どけ!)
だが佐為は微動だにしない。ヒカルになど見向きもせず、一心に行洋を凝視している。
入り口に突っ立ち、席をにらみつけているヒカルを、もちろん皆はいぶかしんだ。
「進藤くん?」
呼びかけられてもヒカルは応えない。そこに佐為がいるからだ。
他の誰にも見えない佐為を、見ているからだ。
「キミ、座りなさい」
それでもヒカルは座らない。
佐為の心が揺らいだ。ヒカルは座ろうと思えば、佐為がいても座れるのだ。だがそれをしな
いのは、自分のことを想ってくれているからだ。
佐為の揺らぎを決定づけたのは、他ならぬ行洋だった。
「進藤くん」
座らぬヒカルを、うながす声色だった。
行洋が対局者だと思っているのは、自分ではなくヒカルなのだ。
あきらめとともに、佐為は目を閉じた。


(8)
《ごめんなさい、ヒカル。ちょっと座っただけですよ》
それはひどく空虚に響いた。佐為の失望が、ヒカルにも伝わってくる。
(佐為……)
二人にしかわからない空気が流れる。佐為のために、自分はどうすればいいのだろうか。
自分はどうしたいのだろうか――――
(……よくわからない子だなあ……)
座っても表情をなにやら忙しく変え、思案げにしているヒカルを見ていると、天野のほうが
不安になってくる。
しかし塔矢行洋を相手にして、そわそわするなというほうが無理かもしれない。
対局開始が告げられた。同時にカメラマンはカメラをかまえ、ピントを合わせた。
しかしそのシャッターは二十分以上、押されることはなかった。

稚拙な手がすすみ、誰もが戸惑っていた。
「なんだよこの手。あいつなに考えてんだ」
「ここなんか、一瞬でつぶされそうだね」
新初段二人の話す声が聞こえてくる。しかしアキラは盤面だけを見ていた。
(なにか意味があるはずだ。あの手も、この手も、なにか特別な意味が……)
それを読み取ろうと全神経を集中させる。だがどうしても、ただのひどい碁にしか見えない。
画面は碁盤しか映さないので、二人の手が交互に行き来するところしか見られない。
ヒカルの顔が見たい、とアキラは思った。
いったいどんな顔をして、父の行洋と対峙しているのだろうか。
また父はどのような思いで、ヒカルと向き合っているのであろうか。
アキラは毎朝、行洋と打っている。そのとき行洋は、自分の内を透かし視るようなまなざし
を向けてくる。その視線にさらされると、決して隠しごとなどできないように思えてくる。
まるで心を裸にされているような感覚を味合わされるのだ。
そこまで考えて、なにか不快なものが胸のうちに込みあげてきた。
しかしそれが何に対してなのかはわからなかった。
アキラはかぶりを振って、余計な考えを追い出そうと努めた。
だがわけもわからぬ焦燥感が消えることはなかった。



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