誘惑 第三部 41


(41)
打ち掛けの時間になっても、ヒカルはしばらく盤面を見つめ、今後の展開を練っていた。
ふと顔を上げ、周りを見回すと、アキラの姿は既になかった。
けれどヒカルはアキラを追わず、そのまま昼食を取るために外に出た。

相手の投了で勝負はついた。石を片付けてから結果を書き込みに行くと、ボードには既にアキラの
中押し勝ちが記入されていた。アキラの姿は見えない。だが、今日は手合いの後に取材が入って
いると言っていた。ヒカルはそのままアキラを待つ事にした。

頭の中で今日の対局を検討していると、ふいに声をかけられた。
「進藤?帰らないのか?」
「ああ、塔矢を待ってるんだ。」
何気なく答えて顔を上げてから、ヒカルは息を飲んだ。
「和谷…」
ヒカルを見下ろしている和谷の顔が蒼ざめているような気がした。
自分の事ばっかりで、もうオレは忘れてた。和谷は塔矢を…。
でも、だからって何が言える?何も言えない。オレだったら、何も言って欲しくない。
ごめん、とか、おまえの気持ちもわかる、とか、でも塔矢は、とか。

色んな事を言いたいような気もしたけど、でもそれは言っちゃいけないような気がして、和谷を真っ
直ぐ見たまま、固い声で、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「塔矢を、待ってるんだ。」
「そっ…か。」
多分、笑おうとしたんだろう。口元を歪ませたまま、じゃあな、と言って、和谷はヒカルに背を向けた。
ごめん、和谷。
でも、和谷がどんなに塔矢を好きだって言ったって、これだけは譲れない。誰にも渡さない。和谷だっ
て、緒方先生だって、他の誰だって。



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