クチナハ 〜平安陰陽師賀茂明淫妖物語〜 41 - 44
(41)
「・・・食っては、くれぬかと思っていた」
唐突に緒方が呟いた。
柚子と青菜を散らした汁粥を啜っていた明は、意味が分からなくて聞き返した。
「は?」
「オレの持って来た物など、要らぬと云われるかと思っていた・・・」
緒方は微笑みのような形に唇を歪めてみせ、穏やかないとおしむような、
けれども少し怯えているような眼差しで明を見た。
「?・・・そんなこと・・・緒方さんが用意してくださった物、
どれもとっても美味しいですよ?」
実際、緒方が調えてくれた食物はどれも善美を尽くした物で、
式神がいなくなってから自作の味気ない料理ばかり食していた明としては
久しぶりにまともな食事を摂ったと実感出来るものだった。
以前緒方に言い寄られたのを拒んで以来、
それまでは程々に親しいと云ってもよいような間柄だった緒方が
めっきり話しかけて来なくなった――どころか必要な時以外避けられているような
感があったので、何とまあ人とは冷たいものだと明は思っていたのだが、
今こうして己の困苦の際に駆けつけてくれたことで、
意外と温かい人柄だったのかもしれないと見直す気持ちにすらなっていたのである。
普段あんなにも自信に満ちた緒方が何故、何に対して怯えたりすると云うのだろう。
――分からない。
己には人の深いところの気持ちはよく分からないのだ。
相手が自らはっきりと、言葉にしてくれるのでなければ。
あのうるさいくらい元気のよい、押し付けがましいくらい引っ付きたがりの、
光そのもののように眩しい近衛のように。
(42)
「・・・・・・」
沈黙が続くと間がもたない。
緒方が何故こんな必死なような目で己を見つめ続けているのか分からない。
途方に暮れて、明は少し微笑んでみせた。
緒方の目が驚きの色に見開かれる。
明は静かに云った。
「緒方さん。今回、こうしてボクが困っている時に貴方が来て下さって・・・
ボク、本当に嬉しいです。感謝しています」
明がにっこり微笑むと、緒方の目がじわっと潤んだ。
――え、・・・
己は今目の前の相手に対して、悪いことでも云っただろうか?
うろたえる明の前で緒方はそっと横を向くと袖で顔を隠し、
振り向いた時には目の潤みも消えて普段の顔に戻っていた。
「緒方さん・・・」
「・・・おまえにそう云って貰えて、ここ暫くのオレの気鬱の種も霧のように
消え失せた心地がする」
「はあ。・・・・・・?」
緒方は暫し天を仰ぎ感慨に耽っているかのように見えたが、
やがて気を取り直したように正面に向き直り、新たな膳を引き寄せた。
「・・・だがまあ今後のことは、とにかくおまえの中のそいつを追い出してからだな・・・。
賀茂。瓜の粕漬けはどうだ」
「あ、はい。いただきます」
緒方の思考の道筋を辿ることは明には出来なかったが、
食事のほうに話題が戻ったようでほっとした。
何事もなかったように肉厚の瓜の粕漬けをパリパリと噛む明を、
緒方はやはり横からじっと、穏やかな顔で見つめていた。
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「そう云えば、緒方さん。その、吉川上人と云う方のことですが」
「うん?ほら、剥けたぞ。食え」
先刻明に礼を云われて以来、緒方は心なしか上機嫌に見える。
目上の人間が手ずから剥いた柑子を口元まで近づけられて、明は恐縮しながら唇を開いた。
慣れない手つきで剥かれた柑子は見た目が少し崩れてしまっているが、
酸味の濃い味が食後の舌に心地よい。
明が目を閉じてその瑞々しい果肉を味わう姿を緒方は微笑みすら浮かべて見守っている。
枕元には式の小鳥がすっかり腹くちくなった様子で丸まっていた。
明が眠っている間、小鳥はいくら促しても餌を啄もうとしなかったが、
主が食事を始めると同時に自らも与えられた物を突付き、相伴に与ったのだった。
「・・・で、その上人がどうしたって?」
「あ、はい。あの・・・その方は強い法力をお持ちだというお話でしたけど、
どの程度のお力なのでしょう」
自惚れるわけではないが、未熟な所もあるとは云え己はやはり
都でも指折りの陰陽師だという自負が明にはある。
町人に憑いた物の怪程度ならそこらの僧侶や陰陽師でも払えるが、
己が抗し得なかった相手に打ち勝てるほどの術者がそう容易く見つかるとは
思えなかった。
明の問いに対し、緒方は柑子の汁で濡れた指を拭いながら云った。
「確証のない事だからさっきは云わなかったんだが・・・
実を云うと、その上人に関してはもう一つ別口の噂があるんだ。
何でもそいつが難波にいた時、強力な妖怪を退治して人々を救ったとか」
「妖怪・・・妖しですか」
「ああ。難波の街に夜になると現れて、恐ろしい声で咆哮しながら夜通し通りを
駆け回るので、人々は恐怖で夜間に出歩くことは勿論、眠ることも出来なかったとか。
そんなことが一年以上も続いたある日、件の聖が現れてその妖しを退治してくれたので
人々は大いに感謝したと――まあ、そんな話だ」
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「それが本当なら、頼みに思って良さそうですが・・・確証がないというのは?」
「ああ、実はその話がな、同じ坊主の話かどうか分からんのだ。
吉川上人というのは白犬を連れているとさっき云っただろう?
だが、その難波で妖怪退治をした聖というのはまったくの独り身で、犬なんぞ飼って
いなかったと云うのさ。・・・別人の噂が混同されているのかもしれん」
「そうですか・・・」
もとより市井の聖などに過大な期待をかけていたわけではない。
その吉川上人なる人物を探すことが事件の解決と結びつかなかったとしても、
それは仕方のないことだと明は思っていた。
寧ろ、聖の召喚が期待外れに終わった場合に光がどれほど落胆し自責するかと思うと
そちらのほうが気がかりだった。
――近衛はもう、目的の地に着いただろうか。
近衛が発った時己は臥せっていて、旅支度をさせる所まで気が回らなかったけれども、
食料などはきちんと持って出たのだろうか。
道中、盗賊や獣に出くわして難儀したりはしていないだろうか。
かつて都の四神をすら御神刀で圧倒したことがある光の腕なら
多少の困難はものともしないだろうが、
せめてお守り代わりに己の書いた御符を一枚持たせてやればよかった。
己という人間は、何故こう肝心な時に抜けているのか――
今頃は己を想いながら遠い洛外の山中に分け入っているであろう光を思うと、
気遣わしさと愛しさが沁むように込み上げて、
明は思わず両手を胸前で握り締め祈るように目を閉じた。
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