クローバー公園(仮) 41 - 45
(41)
「あれ、進藤?あっちから行くんじゃないのか?」
普段なら、ヒカルはアキラの家から別れて、一旦自宅方面に廻るのだが
昨晩のアキラの無防備さが不安で、今日は一緒に行こうと決めていた。
アキラは嬉しそうにふわりと笑ったが、纏う空気の厳しさは普段と変わらなかった。
並んで歩くと、やはり昨晩とは違う、いつものアキラだ。
でもふと気がつくと、アキラはまた手を口元に置いている。
指が唇を滑る動作がまた始まっていた。
「塔矢!」
えっ、と顔を上げたアキラは、またやはり昨晩の無防備だった。
「そーゆーの、しちゃダメだって!」
ヒカルはアキラの手を掴んで下ろした。
「え?ボク?え?」
「外で、そーゆー風に触ったらダメだって」
ヒカルは何故かやたら怒っている。そんな気がして理不尽を感じながらも
何か理由があるのか、少しアキラは考えた。
「あぁ…ばい菌入っちゃうかな。そうか、気を付けるよ」
アキラの返事は的外れだったが、どちらにしても気を付けるのは良いことだ。
そーだよ、気を付けろよ、とヒカルは念押しした。
(42)
電車は相変わらず混んでいた。そんな中でアキラと一緒に居ると
はた目には奇異に映るのか、時々視線を感じることがないわけではなかった。
そんな視線の一つがアキラを嘗め回し、それに気づいたアキラは
厳しい一瞥を、視線の大元に投げつけた。
アキラの様子に気づいたヒカルが、そのアキラの視線の先をちらりと見ると
顔色の悪い脂ぎった中年男が一人、額の汗を拭うような仕種で
何かばつの悪さをごまかしている感じに見受けられた。
アキラの耳元で、小声で問う。
「あのオヤジ、こっち見てたの?」
ヒカルの耳元で、アキラが小さく返す。
「うん、なんか、じろじろ見てたから…お返ししといた」
どうやらもう、いつものアキラだ。
「はは、怖い目見たな、あいつ、カワイソーに」
「可哀相なんかじゃないさ、礼儀も知らない大人が多いね、最近」
訂正。いつもの通りじゃない。ちょっとパワーアップしてるかもな。
とにかく、これなら一人にしても大丈夫そうだ。
そう判断したヒカルは次の駅で、アキラと時間をずらすため、電車を降りた。
(43)
その日の対局相手は格下であったにもかかわらず、アキラは時間をかけ辛勝した。
昨晩、手合のことも忘れてヒカルに溺れてしまったことで
身体を酷使したことが原因に思えた。
前にもそんなことがあった。あれ以来気を付けていたはずだったのに、
昨日はつい忘れてしまっていた。そんな自分を少しだけ反省した。
対局室を見回すと、他は誰も残っていない。控室ももう、空だった。
そういえば、今日の約束も、次の約束も、しなかったな―――
アキラは少し肩を落として、エレベータへ乗り込んだ。次はいつだろう?
溜息と同時にエレベータは一階へ着いて扉が開き、アキラは歩みを進めた。
この後の予定はない。さて、これから何処へ行こうか?
家に帰る気にも、かといって碁会所で人と顔を合わせる気にもなれなかった。
後ろで誰かの声がする。こんなところで、そんな大きな声を出して
一体、何になるのだろう?
アキラはドアを出ると、どうしようもなくて、とりあえず空を見上げた。
空は今日も青いままだ。
「――塔矢!とーおーやっ!」
肩を掴まれ振り向かされて初めて、アキラは、その大きな声が
自分を呼んでいたことに気がついた。
「…進藤、」
アキラは思わず微笑んだ。ヒカルはアキラに並んで歩き始めた。
(44)
「勝っただろ?」
ヒカルは夏の日差しの明るさで、当然とばかりにアキラに聞いた。
内容を考えれば、とてもじゃないが勝ったとは言えない。アキラは口ごもった。
「……勝ったんだろ?」
少し穏やかに、ヒカルは繰り返した。アキラは黙って少しだけ頷いた。
ヒカルは突然立ち止まって、アキラは少しヒカルを置いて歩いてしまった。
慌てて振り向くと、ヒカルは破顔の笑みで、自身の右の腰骨あたりを叩いて見せた。
意味が分からなくて、アキラは首を傾げた。ヒカルは更に続けて叩いた。
何だ?と聞いてもヒカルは笑ってるばかりだ。同じようにしろということだろうか?
アキラは、ヒカルと同じように、左手で同じ辺りをぽんぽんと叩いて返した。
ヒカルは更に嬉しそうに笑って、ぽんぽんと叩いてみせた。
アキラもそれにならった。何度か繰り返して、気がついたアキラは
背広の左ポケットに手を突っ込んだ。
普段は使わないポケットで、何も入っていないはずだったが
中から折り畳まれた小さな紙が出てきた。ヒカルはさらに嬉しそうにアキラを見る。
見覚えのないその紙片を開くと、はらりと何かがこぼれ落ち、アキラは慌てて拾った。
―――四つ葉のクローバー。
ヒカルが歩み寄ってやっと口を開いた。
「今朝入れといたんだ。当たるもんだろ?」
(45)
「今日の組み合わせで、ボクが負けるはずないだろう。実力だよ」
アキラは努めて冷静に答えた。
「ウソつけ!すっげーボロボロだったくせに!………やっぱ今日、つらかった?」
別に、と言おうとしたが、一瞬早くヒカルに背中を擦られ、思わず飛び上がった。
「なっ!何するんだ!?」
「やっぱ痛いんだ?ごめんな、手合の前だったのに」
「…それは別にいいけど、次はイヤだからね」
「ごめん、ごめん。でも、当たっただろ?」
それって、当たった、という問題だろうか?
「オマエもさ、こーゆーのも、たまには大事にしろよ」
「……………………そうだね」
アキラは、もう一度紙片の中に大事にクローバーを挟んだ。
「な、今日これから、ちょっとだけオマエんち行ってもいい?」
「ああ。夕飯はどうする?」
手の中の小さな幸福をポケットに突っ込んで、ヒカルと二人、家路についた。
「──あ、進藤、昨日言ってたキングなんとかがどうこう…って、なんだ?」
【クローバー公園・おわり】
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