Linkage 41 - 45
(41)
再び俯き加減でそう漏らすアキラを緒方はチラリと横目で見ると、煙を上空に勢いよく
吐き出しながらソファの背もたれに上体を預けた。
「クックック」と小さく笑う緒方の身体の振動が、横に腰掛けるアキラにもソファ越しに
伝わる。
「……笑うなんてひどいじゃないですか、緒方さん……」
責めるような、それでいて悲しげな視線を向けるアキラに、緒方は苦笑した。
「いや、アキラ君のことだけを笑ったわけじゃないさ。むしろ自嘲的なものなんだが……。
同じ哀れな不眠症患者が、ここにもひとりいるんでね」
アキラは緒方の言葉に驚いたのか、緒方を見つめたまま身動きひとつしない。
「クックック……鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてるぞ、アキラ君」
呆然とするアキラの様子に、笑い出しそうになるのを必死に堪える緒方だったが、煙草を
持つ指先の震えだけは抑えきれなかった。
アキラは信じられないと言わんばかりに、ようやく緒方に食ってかかる。
「……緒方さんが?緒方さんが不眠症!?」
「そうとも。オレもキミのお仲間さ。それとも……繊細なアキラ君ならともかく、オレ
みたいなヤツには不眠症なんて似つかわしくないとでも?」
吐き出した白い煙が空中に消えていく様を眺めながら、緒方はからかうような口調で言った。
アキラは緒方の言葉に顔を紅潮させ、首を横に振る。
「そっ…そんな意味じゃないんです。……緒方さん……気を悪くしましたか?」
「気を悪くなんてしてないさ。ただキミの反応があまりにも面白いから、少し楽しませて
もらっただけでね」
緒方は煙草を揉み消すと、ペリエを一気に飲み干し、悠然と言ってのけた。
(42)
「……それにしても、塔矢門下の間で不眠症が流行りつつあるのかな?まあ芦原だけは、
この流行とは無縁だろうが……」
言い終わるや否や、2人は顔を見合わせて笑い出した。
「芦原さん……今頃くしゃみしてるんじゃないかなぁ」
そう言って楽しそうに笑うアキラの様子を満足げに見つめていた緒方が、アキラの
頭に手をやる。
「やっと笑ったな、アキラ君」
さも嬉しそうにアキラの頭を撫でる緒方に、アキラははにかみながらも微笑んだ。
「だが、これでアキラ君の不眠症が解消するわけでなし……。オレと同じ方法と
いうわけにもなァ……」
「……緒方さんと同じ方法?」
緒方の言葉に、アキラは不思議そうに小首を傾げた。
緒方は自分とアキラのグラスにペリエを注ぎ、皿の上のクラッカーを2つ摘むと、
1つをアキラに勧め、もう1つを自分の口に放り込んだ。
「まだ子供のアキラ君には勧められない方法だが……。かなり強引なやり方とも
言えるしな」
「強引なやり方って……お酒でも飲むんですか?」
口の中のクラッカーを飲み込むと、アキラはペリエのグラスに手を伸ばしながら尋ねた。
「ハハハ。よくわかってるじゃないか、アキラ君。確かに以前はその方法だったぜ」
緒方は苦笑して、更にクラッカーを口に放り込む。
アキラもクラッカーを皿から取りはしたが、緒方のようにいきなり口に放り込んだりはせず、
端を小さく齧った。
「早い話が薬さ。睡眠導入剤ってヤツだな」
「……睡眠……導入剤……」
小学生のアキラには聞き慣れない言葉だった。
(43)
「……その薬を飲むと、よく眠れるんですか?」
アキラの問いかけに緒方は薄く笑い、頷いた。
「まあな。今までの苦労が馬鹿らしく思えるほど呆気なく寝付けるんで、たまに恐くなるが……」
「薬局で売ってるんですか、その薬?」
アキラは薬に強い興味を抱いたのか、真剣な眼差しで緒方に尋ねた。
「薬局では売ってないが……まあ、ちょっと特殊な入手ルートがあるんでね。どうやら興味津々の
ようだが、子供には危険すぎる。小学生が睡眠導入剤を使うなんて世も末だぞ」
穏やかな口調でそう忠告する緒方に、アキラは一応小さく頷いてはみたものの、諦めきれず、
なおも食い下がる。
「ボクだって……薬を使うのは恐いです……。でも、他に方法ってありますか?それに……緒方さん、
子供子供って言うけど、ボクはもう……」
「もうすぐ中学生か?ハハハ。確かにそうだが、今はまだ子供料金で電車に乗れる、ランドセルを
背負った可愛い小学6年生だろ?」
反論の余地のない緒方の言葉に、アキラは不満げに頬を膨らませた。
緒方はやれやれといった表情で、アキラの頭をポンと撫でると、腕組みをして何事か考え始める。
(他に方法があるかと言われても……あれば不眠症歴の長いオレがとっくに実践してるな……。
あの薬はこれまでに特に副作用らしき症状もないし、量を減らせば……いや、ダメだ。
だいたい塔矢家の冷蔵庫に保管なんかできるわけがないだろう……。露見したら、オレはともかく
アキラ君が可哀想だ。……だが……毎週の研究会や碁会所で会う時に、すぐ使い切るという条件で
渡してやれば、冷蔵保存しなくても問題ないかもな……)
(44)
虚空を見つめながら思案に耽る緒方に、ついさっきまで膨れ面だったアキラが心配そうに声をかける。
「……何を考えてるんですか、緒方さん?それとも……怒ってるんですか?」
アキラの声に緒方は我に返ると、肩をすくめて笑った。
「別に怒ってなんかいないぞ。アキラ君のお悩みをさてどうしたものかとイロイロ考えていたのさ」
アキラはホッとしたのか胸を撫で下ろすと、グラスを手に取り中身をゆっくり飲み干した。
「……で……いい方法は思いつきましたか?」
緒方は唇の片端をつり上げて笑うと、仕方なさそうに口を開いた。
「いい方法は、やはりあの薬しかないという結論に達したよ。オレとしては不本意だがな……」
アキラは一瞬驚いたものの、すぐ嬉しそうに緒方の腕を掴む。
「いいんですか?ホントに?ホントに?」
「そこまで喜ばれるとはな……それだけ辛かったということか。まあ適量なら問題ない……だろうな、
恐らく。……だが、アキラ君の適量がよくわからん」
緒方はそう言って煙草を取り出し火をつけると、窓の外では既に日が傾き始めていることに気付き、
腕時計にチラリと目をやる。
冬場は日暮れも早いだけに、時間はまだ4時を過ぎたばかりであった。
ライターを手の中で転がしながら、再びしばらく思案する緒方だったが、やがて期待と不安の入り
混じった表情を浮かべるアキラに視線を向ける。
(45)
「……アキラ君、今晩ここに泊まれるかな?先生にはオレの対局の話を聞きたいとか、将来のことを
相談したいとか、適当に理由を言って……。明日はオレがキミの登校時間までに、ちゃんと自宅に
送るから。取り敢えず、オレがアキラ君の適量を見定めてから、実際に渡した方がいいんでね」
アキラは腕組みしてしばらく考え込んでいたが、やがて緒方の方に向き直ると力強く頷いた。
「いいですよ。じゃあ今かけちゃうんで、電話を借りていいですか?」
そう言って緒方の返事も待たずにすかさず立ち上がるアキラのあまりに速い行動ぶりに、緒方は
呆気にとられるばかりで、返事もまともにできない。
(さっきまで落ち込んでいた子が、これだからなァ……)
そうこうしている間に、アキラはPCデスクの上部の棚にある電話で、今夜緒方の自宅に泊まる
旨を手早く伝え、受話器を置いた。
「お父さんが出て、緒方さんによろしく伝えてくれって言ってました。あと、迷惑をかけない
ようになって言われちゃいました。緒方さん、今夜はよろしくお願いします」
アキラは嬉しそうにそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「……ああ、そうかい……」
アキラの行動力にほとほと感服したと言わんばかりに、緒方は力無く煙を吐き出した。
|