裏階段 アキラ編 41 - 45
(41)
横になっても結局その夜は眠る事は出来なかった。
おそらく映画かあるいは海外ドラマで欧米人が親しい家族や友人同志でキスを
交わすシーンでも見たのだろう。
子供のする事に深い意味合いなどないと自分を納得させ、シャワーを浴びる。
『数年もしたら立派なsexの対象になりえるわ。』
呪文のように頭の中にこびりついた彼女の言葉をかき消そうとする。
エスプレッソをいれて朝刊を読んでいるとアキラが起きて来た。
「おはようございます、緒方さん。」
「…ああ」
アキラはもう学校の制服に着がえていた。アキラが洗面台に立つ間にシリアルを皿に出し、
フルーツを適当に切ってミルクと一緒にテーブルに出してやった。
「緒方さんは?」
顔を洗ったアキラがテーブルについて怪訝そうな顔をするので
「オレはこれでいい」
とエスプレッソのカップを掲げてみせてやる。
「いただきます」
アキラはシリアルにミルクをかけてスプーンで一口食べた。その時「うっ」と再び
怪訝そうな顔になり、もそもそ口を動かしていた。
「どうした?」
そう尋ねてもアキラはただ首を横に振り、もう一口、口に運ぶが明らかに無理をしている様子だった。
気になったので傍に行き、アキラの手からスプーンを奪って一口食べてみた。
そのシリアルには全く味がなかったのだった。
(42)
「悪かった。」
慌ててキッチンに行き、グラニュー糖の容れ物を取って戻り、適当にシリアルにかけてやる。
そうしてアキラはそれを口にし、ホッとしたような顔になって食事を続けた。
普段自分も食べない類のものだったし、種類が多く、以前彼女の買い物につき合った時朝食用だと言って
彼女が選んだものを買ってみたのだった。女が好んで食うものなら子供の口にも合うだろうと思ったのだ。
だがそれはダイエット用のシリアルらしかった。甘さを足してもそう旨いものではないだろう。
それでもアキラは時間はかかったが皿にあった分は全て食べた。それだけで苦しそうな
様子だった。食は相変わらず細いようだった。
「フルーツはいいだけ食べればいい。」
「はい」
アキラはバナナとキウイと苺を一切れずつゆっくり頬張り「ごちそうさまでした」と言って
カップや皿をキッチンの流しへ運んだ。
そしてパソコンの前に座り夕べの続きをせがんで来た。
こちらも身支度をしながら相手をしてやった。
「緒方さん、学校が終わったらまた続きしに来ていいですか?」
拒否される可能性など微塵も予測していない円らな瞳で聞いて来る。
「…いや、今日はダメだ。アキラくんは学校が終わったら駅前の碁会所で待っていなさい。
夜までに迎えに行くから。おそらく先生達も夜には戻られるだろう。」
「…はい。」
アキラの表情が一瞬淋しげに曇った。
飼い主に家の中に入る事を禁じられた仔犬のような顔だった。
(43)
それでもなおアキラは食い下がってきた。
「でも、…またここに来てもいいですよね。」
念を押すように、確約を取ろうと意地になっているようだった。
「それは構わないよ。ただし、ちゃんと家の人に断ってから来るんだ。」
こちらの心臓が早鐘を打つのを悟られぬよう淡々と答える。
だがアキラは敏感にその緊張感を受け取っていた。
おそらく朝起きて、オレの顔を見た瞬間からそれを感じてはいたのだろう。
「……」
大きな瞳で不安げに見つめてくる。
「どうした。」
「…怒っていますか、緒方さん…。」
「何を、だ。」
つい語気が荒くなった。怒られると思うのならあんな事は二度とするな、と口をついて
出そうになった。アキラの小さな肩がビクリと震えた。
それでも視線を外そうとはせず、ただ黙って必死に何かを探ろうとオレの目を見つめ続ける。
自分が拒否されるのか、受け入れられるのか怯えながらも今ここで答えを求めているようだった。
思わず大きくため息が漏れた。困らせようとか、からかおうとかアキラがそういう悪戯で
ああいう事をする子供ではないのはオレが誰よりも知っている。
自分を特別な存在として認めて欲しいと訴えている、その瞳に吸い寄せられるように顔を寄せ、
アキラの額に、そして唇に自分の唇を軽く触れさせた。
「…怒っていないよ。」
(44)
瞬間、アキラの表情が安堵に明るく輝いた。
用意が整って部屋を出る時、靴を履こうと屈み込んだオレの首にアキラは腕をまわし、もう一度
キスをする事を要求してきた。顔をそちらに向けてやるとアキラが唇を押し付けて来て、にこりと笑った。
その時は子供が父親にお土産をねだるような無邪気なキスだった。
ふと、先生や明子夫人が日頃そうしてアキラにしているのかもしれないと思った。
明子夫人はともかく先生のその場面は想像しにくかったが。
だが、夜中のあのキスは違った。目を閉じていても、オレの寝顔をじっと見下ろすアキラの
視線には、子供とは思えない情念的なものを感じた。
どちらにしても、なぜアキラがここまで自分に執着するのかわからなかった。
いや、むしろ今までのアキラに対する認識が誤っていたのかもしれない。
おとなしく礼儀正しく、従順で素直な少年。
だがその内側に強い意志と激しい自我を持つものが確かに存在しつつある。
親にも見せないその内面の顔を、オレの前では隠す事をしなくなっている。
そういう相手に選ばれたのかもしれない。
「どうもありがとうございました。行って来ます。」
学校に続く通りまで送ってやると、アキラはそう言って頭をペコリと下げ、車を降りてこちらが
かなり離れるまで道路脇に立って見つめていた。
今後アキラが成長して行く上で人には言えない悩みや秘密を抱え、その重みに耐え切れなくなった時、
アキラが望めばその重さを分かつ相手になってやりたい、同志になってやりたいと考える。
その確約ならば与えられると思った。
(45)
実際にアキラが望み、オレに課した重みは想像を超えるものだった。
マンションに戻り一通り夕べの原稿に目を通して修正し編集部に送って仮眠をとった。
午後は指導碁の仕事があり、その後直接アキラが待つ碁会所に行くため部屋に残されていた
アキラの宿泊用の荷物だったバッグを持って車に乗り込む。
パジャマと着替えた服と洗面道具程度しか入っていないであろう布製の小さなブルーのバッグは軽かった。
その年頃であれば誰もがどこに行くにも持ち歩くアイテムだった携帯用ゲーム機の類を
アキラは持っていなかった。欲しがりもしないらしい。
そういう意味でもアキラは十分特殊な子供であった事は間違いない。
夕方駅前の碁会所に行くと、既にアキラが待っていて一人で棋譜並べをしていた。
アキラはこちらに気付くと嬉しそうに駆け寄って来た。
「お父さんから電話があったんです。今夜帰って来るって。それまで緒方さんと一緒にいなさいって。」
そのアキラの背後から、受付係りの年輩の女性が―当時はまだ市河嬢ではなかった―、
「もう一度、塔矢先生の方からここへ電話されるそうです。」と付け足して来た。
その端から電話が鳴った。応対したその女性から受話器を受け取り、先生から最終の新幹線で
東京に戻り、タクシーで自宅に向かうので到着は深夜近くになる旨を伝えられた。
「ええ、こちらは構いませんので。アキラくんの事は心配なさらないでください。…いえ、本当に。
アキラくんはおとなしくしていましたし…。」
電話の間アキラは寄り添うようにオレの直ぐ傍らに立っていた。
|