裏階段 ヒカル編 41 - 45
(41)
アキラも一瞬瞳の奥でオレを睨んだ。だが思ったよりは反応は鈍かった。
「…別に、ボクは彼のことなどどうでも…」
返事に言い淀むアキラに代わって先生が答えた。
「…例の子か」
やはり先生は覚えていた。
瞬時、オレとアキラの間の駆け引きに見かねて口を挟まれたのかとヒヤリとしたが、単純に先生も
進藤にある意味興味があるようだった。例え一時的にしろアキラが視線の中に捉えた相手だからか、
それとも他の者には感じ得ないものを進藤から嗅ぎ取ったのか。
俯いたアキラが軽く唇を噛むのが見えた。
先生の中では進藤がどういう位置付けなのかはその時は読めなかった。
ただ、先生とオレとアキラと、3人の意識の中に確かに進藤が「居る」事を互いに知った。
そして間もなく新入段免状授与式があった。
トップ棋士の御子息の入段式ともなれば華やかにと棋院内では色めき立つ者もいたようだが、先生は顔を
出さないとして、それとなく申し入れをし普段と変わりなく淡々と式典は進められていった。
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アキラに対して好意的でない視線も確かに存在する。
やはり実績を見せてもらうまでは様子見という姿勢を構える者も多い。
「緒方さん、緒方さん…」
式典の会場の人込みの中でアキラがオレの名を呼ぶ。
「緒方さん…!」
オレの姿を見つけて人込みの間をすり抜け真っ直にアキラがこちらに早足で駆け寄ってくる。
オーダーメイドのスーツが上品な物越しに合ったラインをつくる。
成長期の最中に海王中学の制服も常にぴったりとしたサイズを着用していた。それはそのまま
その家の財力を示す。特に一人っ子となればそうして自分にとって最適なものを与えられる事が
当り前という感覚となっていくのだろう。
我慢や妥協を強いられる機会がない分、選美眼が養われる。
数有るものの中から的確に最上級のものを掴み出す。
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幼い頃から大人達の間で過ごす機会が多かった彼も、さすがにこの日の空気はどことなくいちもと
違うものを嗅ぎ取り心細さを感じたのだろう。今後は子供扱いは許されなくなる。
指導の為に研究会などで自分と碁を打ち合ってくれた相手らが、これからは互いの身を食い合う
ライバルとなる。
それでも、オレだけは他の者とは違うと思ったのだ。先日の進藤に関するオレの余計な
手出しの一件もすっかり忘れているようだった。
自分にとってオレが特別というよりも、オレにとって自分は特別であろうという期待に見えた。
「ようこそ、プロの世界へ」
あえて突き放すような表情でかけたその言葉にアキラは一瞬足を竦め、ハッとしたように目を
見開いた。瞬時にいろんなものを受け取ったようだった。
「…よろしくお願いします。」
深々とアキラはオレに頭を下げた。そして顔を引き上げた時は笑顔は消えていた。
もう二度と見せまいと奥にしまいこんでしまったようだった。
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薄明かりに浮かぶ進藤の顔面に手をかざす。
あまりにも静かで、呼吸をしていないかと不安になったからだ。
時を止めて凍てついてしまったように表情も動かない。
それほどに深い眠りの中に進藤はいた。このままかざした手でその鼻と口を塞いで
永遠に自分一人のものにしてしまいたい、誰にも連れていかれぬように、そんな誘惑にかられる。
アキラと同様に寝顔はまだあの頃とそう変わらず幼く見える。
端正に整った顔立ちとは言えないが、あの三谷という少年のように
年齢や性別を超え、人という魂を超えた獲難い存在に見える。
はち切れそうに健康的に丸みを帯びていた頬は今ではごっそりと削げ落ちている。
それでもまだ唇や顎のラインは少女のように優しく儚げだ。
「…ずっとそこに居たいのか…?」
深い眠りの中で彼はどんな夢を見ているのだろう。夢も見ない暗黒の、あるいは
光の概念すらない世界に遡り佇んでいるのかもしれない。
そんな進藤の顔を見つめながら、なぜあの時のアキラの姿が頭に浮かんだのか考える。
(45)
記憶の限りでアキラがオレに向けた、幼い頃の面影を残した最後の笑顔だった。
進藤という半透明のフィルターに互いの思惑を透かし合い重ね合う日々の始まりだった。
生命を維持するための最低限の呼吸を静かに繰り返す進藤の髪に触れながら
軽く目眩がして、もう片方の手で自分の目を押さえる。するとその指先が濡れた。
自分が泣いていると気付くと次々と涙が溢れて頬を伝わって流れた。
自分の中にまだそういう感情が残されているのが不思議だった。
アキラがどう受け取っているかは別にして、彼には酷い事をしたと思う。
その罪から逃れるつもりはない。だからアキラの代わりにこうして進藤とここにいる。
誰一人それで報われる事はないとわかっている。
先生を追い続けていた。先生の存在が全てだった。
アキラに追われ、アキラに捕らえられたはずだった。
進藤をいつから追い始めていたのか考える。今こうしてふたりでいる、ふたりで寄り添い合っている意味を考える。
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