誘惑 第一部 41 - 45
(41)
全てを克明に覚えている訳ではない。直後でさえ、意識も記憶も全ては混乱の中にあった。
例えばこの曲のように、断片的なモチーフが唐突にやってきては去り、甘く切ないメロディが
奏でられたと思えば次の瞬間には激しく荒々しく鳴り響く。そんな印象しか覚えていない。
あの時、ボクはその嵐に翻弄され、飲み尽くされた。
忘れてしまいたいと、葬り去ってしまいたいと思っていた事を、なぜ懐かしむのか。
あの日まで、ボクは何も知らなかった。
強引に身体を開かされ、性的な快楽を味わわされた。
目を閉じてオーケストラの音響に意識を委ねると、泣き叫ぶ自分の姿が脳裏に浮かぶような気
がした。自分に与えられているものが何なのか、彼の意図するものが何であるかも知らず、絶
対的な暴力と性愛に晒されて泣く事しか出来なかった過去の自分が。
あの時も、求めていた人物は唯一人だった。
アキラの頬を、涙がまた伝い落ちる。
激しいなら、激しいままでいれば良いのに、乱暴なままでいれば良いのに、どうして突然こんな
切なげなメロディに変わるんだ。唐突に、なんの脈絡もなく。そしてその切なさに浸っていると、
あっと言う間にまた嵐に飲み込まれる。そんな風に、ボクをもてあそんで、翻弄するのは止めて
くれ。優しくするなら優しく、そうでないなら、最初から最後までずっと乱暴に扱えばいい。どっち
つかずな態度は止めてくれ。そうでないと、ボクには愛も憎悪も暴力も肉欲も支配欲も、区別が
つかなくなる。
それでも嵐はまた唐突に去り、低い微かなティンパニのトレモロの上にすすり泣きのようなチェロ
の旋律が低くうたわれる。その旋律がかつて聞いた言葉を呼び起こす。
言葉の詳細は覚えていない。ただ、彼が言う「おまえだ」という意味だけが、残っていた。
「オレにとってはそれはおまえだ。」と。けれどボクにとってはそれは違う人物だった。
ボクにとってはそれは進藤だった。あの時も。今も。
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どうしてボクは緒方さんのあの言葉を受け入れる事ができなかったのだろう。
身体は、感情を、欲望を、受け入れる事なんて簡単なのに、どうして心は頑なに彼だけを求め、
彼だけしか受け入れる事ができないんだろう。
なだめるような、哀願するような調べに、けれど抑えきれない訴えかけが複雑で悲痛な響きを
呼ぶ。失くしてしまった何かを取り戻したいと願う、嘆きとも怒りともつかぬようなその激情を、
抑えようという感情と、それでも諦めきれない思いが入り乱れる。
そしてやがて音楽は苦悩の向こうに喜びを見出し、音階を上り下りする弦楽器の刻みの上に何
かをふっきたように管打が高らかに吹き鳴らされる。失われてしまったものは二度と取り戻す事
は出来ないのだと、起きてしまった事は、現実は現実として受け止めるしかないのだと、認めてし
まったように。それでも微かに残る抵抗をも飲み込んで、嵐のように始まった2楽章は、やがて
全てを受け入れて静かに終わる。
ホルンの軽快な音で3楽章のスケルツォが始まり、その時初めて、アキラは自分の頬が涙で汚
れている事に気付いた。
手の甲でそれを拭い、立ち上がって洗面所へ向かう。水でざっと顔を洗い流し、タオルで顔を拭う。
アキラははっと目を見開いた。無意識に伸ばした手が、正しく目的の物を取る事が出来る。目を
瞑っても歩ける。どこに何があるかわかる。
自分が馴染んだ配置から、何もかも、変わっていない。
本当に、あまりにも変わっていないのでその変わらなさに驚くぐらいだ。
「緒方さん?」
部屋の主の名を呼ぶ。だが、応えはない。
「緒方さん…?」
もう一度、彼を呼ぶ。呼びながら、部屋へ戻り、寝室の、書斎のドアを開ける。
だが、そこには誰もいない。アキラの呼びかけに応えるものは、この部屋にはいない。
「緒方さん!?」
いない?どこにもいない?行ってしまった?ボクを置いて?どこへ?どうして?
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玄関のドアが開く音がした。
振り向いてアキラはそこへ走った。
玄関に、息を切らした緒方が立っていた。
唇を噛み締めて、アキラは緒方を見詰めた。
言葉が、出て来ない。見詰めている間に、また、涙が溢れそうになってきた。
緒方が口を開こうとした瞬間、それを咎めるようにアキラが口を開いた。
「どうして!?」
緒方をなじるアキラの声が、玄関に響く。
「どうして、いなくなるの?どうしてボクを独りにするの?
いやだ。黙って行っちゃ、いやだ。ボクを置いてっちゃ、いやだ。
置いてかないで。独りにしないで。」
自分がどんなに理不尽な事を言っているか、分かっている。でも、何を言っても、彼なら全てを
受け取ってくれる事を知っていたから。だからいつも安心して、わがままを言った。
「済まなかった。」
そういって、緒方がアキラの身体を抱きしめる。
暖かい、広い胸。何があっても、何を言っても、全てを受け入れて受け止めてくれる、優しい胸。
その胸に顔を埋めて、背中に腕を回して、アキラが言った。
「緒方さん…、お願いがあるんだ。」
わかってる。ボクがどんなにひどい事をしているか。きっとこの人を傷つけるだけの願い事を、
受け入れてくれる事を当たり前のように期待して、甘えていると言う事を。
それでもその言葉を口にするのにはためらいがあった。
自分自身を勇気付けるように、ぎゅっと腕に力をこめる。震える声で、アキラがその言葉を発した。
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「…ボクを、抱いて。」
アキラの背を、髪を、優しく撫ぜていた手が止まった。
予感はしていた。その為に、それだけの為に、彼はここに来たのだ。
今までも、ずっとそうだった。それは変わっていないのだ。
アキラが顔を上げて、緒方の目を真っ直ぐに見て、言った。
「確かめたいんだ。」
何を、と緒方は口に出さずにアキラに問う。
何を確かめるために、またオレを利用しようと言うんだ?
「緒方さん…」
彼の名を呼びながら、アキラの黒い瞳が哀願するように緒方の薄茶色の瞳を覗き上げた。
「アキラ…オレが、どんな思いでおまえを手放したのか、分かっているのか…?」
「緒方さん…」
アキラの瞳と呼び声が緒方を追いつめる。
「オレだけのものにはなれないくせに。そんなつもりもないくせに。」
「緒方さん…」
潤んだ瞳が緒方を誘う。
「アキラ、おまえは残酷だ…」
そんな緒方の言葉を、躊躇を打ち消すように、目を閉じて、耳元によせて囁いた。
「すき…」
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アキラの小さな声が緒方のなけなしの理性を奪う。
唇までの、最後の距離を詰めたのは緒方だった。
最初から分かっていた事だ。この瞳に逆らう事はできない。
緒方は、アキラの望み通りの優しい、けれど荒々しいキスを与えた。
―オレは…オレは、馬鹿だ。
あの頃何度も繰り返したフレーズを、また緒方は繰り返す。
利用されているだけなのがわかっていて、それでもそれが嬉しいとは。
彼が求めているのは、愛しているのは自分でない事を知っていて、それでも自分を頼ってくる
のが、利用される事さえ嬉しいと思ってしまうとは。大馬鹿者だ。
懐かしい、唇の感触。進藤の柔らかくすべすべした唇とは違う、幾分硬い、乾いた唇。
煙草の味と刺激が舌を刺す。懐かしい味。
体重を預けた自分の身体をしっかりと支える逞しい腕。
アキラは安心して彼にその身を委ねた。
緒方がアキラの身体を抱き上げた。一瞬、その重みに眉をしかめ、だが次の瞬間にはそんな
事など感じなかったように、軽々とアキラの身体を運んだ。
軽快にはじまったスケルツォはいつの間にかどこか物憂げなワルツに変化していた。
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