光明の章 41 - 45
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ゴメン、という言葉に和谷の肩が揺れた。ヒカルは、和谷が自分の話を最後
まで聞いてくれるかどうか不安になり、何処にも行かせまいと和谷の手をさ
らに強く握る。
「オレ、他に好きなヤツがいる」
それでも和谷の目を見ることが出来ないヒカルは、繋いだ両手の辺りに視線
を泳がせ、和谷の出方を待った。
「…聞き…たくねェ…そんな…」
和谷は首を横に振り、弱々しくヒカルを見る。自ら開けた箱の中身を知るの
が怖くて、らしくない駄々をこねた。
「嫌だ…!もう何も言うな!聞きたくねェよ…」
そんな和谷をあやすように、ヒカルは目一杯優しい声で、ずっと隠していた
気持ちを打ち明ける。
「和谷が、オレのこと好きだって言ってくれて、正直嬉しい。オレ、和谷の
こと嫌いじゃないから。でも、もう居るんだ、オレの中に。どうやっても
動かせないヤツが。好きとか嫌いとか、もうそんなのどうでもいい。この
先何があっても、誰に邪魔されても、オレはソイツを選ぶって決めたんだ」
「──じゃあなんで、簡単にキスなんかするんだよ!」
和谷の怒りはもっともだと思いつつ、さらにその理由を述べればさすがに殴
られるかもしれないとヒカルは身構えた。
「和谷だったから」
「………」
「和谷だから、キスできた。でもやっぱり気持ちまでは渡せない」
「……なんだよそれ。…あんまりオレを馬鹿にすんな!」
和谷は立ち上がってヒカルの手を振り解き、その胸倉を掴んだ。怒りに震え
る手が衝動的に持ち上がる。だが、無抵抗のまま毅然と自分を見上げるヒカ
ルがワザと殴られようとしているのではないかと勘繰ると空しさだけが込み
上げてきて、不覚にも泣きそうになる。
和谷はヒカルからゆっくりと体を離し、そのまま踵を返した。そしていつも
と同じように、左の道へと姿を消した。サヨナラも言わずに。
「……和谷」
怒らせたというより、絶望感だけ与えてしまったような気がする。
無言で立ち去ったその後姿になんの後悔もないわけではないが、一方を選べ
ば他方を切り捨てるくらいの覚悟がなければ、自分はアキラとちゃんと向い
合えないとヒカルは思った。事実、アキラはそうやってヒカルの元へ来た。
ヒカルは立ち上がって、ズボンに付いた汚れを払った。
「…やっぱ、ちょっとキツイな」
塔矢アキラ一人を追うだけで、これからもいろんなものを失ったり、手放し
たりするのだろう。アキラはそうさせるだけの相手であり、ヒカルはそんな
アキラに選ばれた自負がある。つい口を出た弱音に苦笑し、少しはアキラも
音沙汰のない自分のことを気にしてくれているのだろうかと、ヒカルは夜空
を見上げ、一人家路を急いだ。
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翌日の水曜日。対局を控えたヒカルは、ほろ苦い思いを抱えたまま日本棋院
を訪れた。本日の天候は晴れ。だが、文句なしの快晴に比べて、我ながら冴
えない顔をしていると思う。和谷の手合いが明日である事に、ヒカルは心底
ホッとした。
エレベーターで六階を目指す。昨日の出来事に左右されず対局に集中できる
環境作りの為、普段より三十分早めに家を出てきた。何があろうと対局に影
響が出るようではプロ失格だ。平常心を胸にエレベーターを下り、さて時間
までどうしようかと考えているところへ、いきなり後ろから誰かに肩を叩か
れた。
「オハヨ」
振り向くと、居るはずのない和谷が照れ笑いを浮かべて立っていた。
「お、おはよ…和谷…なんで?今日手合いないんじゃぁ」
「ないけど、来た。お前にどうしても言いたい事があるから。対局前だけど
ちょっといいか」
「……うん」
和谷は大広間に一番遠い部屋を覗き、誰も居ないのを確認すると靴を脱いで
ヒカルを手招いた。おとなしく付いてきたヒカルを引っ張り込むと、後手に
襖を閉める。そして、静かに言った。
「オレ、お前のせいで久しぶりに泣いたよ。泣くのなんてプロ試験に合格し
た時以来だから、慣れてなくって頭の芯がいてェ。ズキズキする」
「………」
よく見ると、和谷の目は泣き腫らした証拠のように赤くなっている。それで
も口調は柔らかく、てっきり詰られるのだと思っていたヒカルは、昨日との
ギャップの違いに驚いて、冷静に話を聞ける態勢ではなかった。和谷の口か
らどんな言葉が飛び出してくるのか想像もつかないまま、落ち着かずに視線
を彷徨わせる。
和谷は明るかった。無理して元気な風を装っているわけでもなく、ヒカルと
の件で何かがふっきれ、気持ちの整理がついたようだった。
「進藤。オレ、お前の事ずっと好きだからな」
「はァ?」
「オレ、諦めるなんて一言も言ってねェし。第一お前に好きなヤツがいるか
らって、オレが身を引く義理なんてないだろ」
「でも昨日…」
それじゃあ昨日のあれは一体なんだったのかと思い返してみると、確かに和
谷は諦めるだの身を引くだの、そんな言葉は何一つ残していかなかった。
「泣いたらスッキリした。お前がオレのこと嫌いじゃないって言ってくれた、
それだけで今は充分なんだ。それにさ」
和谷の手がヒカルを捕らえ、その唇を素早く奪う。
「ただのキスなら何度でもできるんだろ?──オレも気持ちは後ででイイや」
「…和ァ谷〜、お前って……」
ヒカルは濡れた唇を袖口で拭い、和谷をにらみつけた。
和谷は悪びれもせず笑っている。
その時、まるで見計らったかのように襖を叩く音がした。
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始めは軽く遠慮がちだったノック音が徐々に強さを増し、無視できなくなった
和谷が緊張した面持ちで襖に手をかける。
「──はい今開けます…ってなんだ、お前か」
「進藤、ここにいるよね」
同期生に愛想笑いすら浮かべず、越智は眼鏡を光らせながら部屋の中を覗いた。
「進藤に何の用だよ」
ヒカルに近づく人間は全て自分の敵とばかりに早速攻撃態勢をとる和谷に対し、
越智は至極冷静に応じてみせた。
「毎週土曜日、進藤にウチのおじいちゃんの指導碁を頼んでるんだけど、先週
すっぽかされたんだ。進藤の家に電話したら、まだ外から帰ってきてないっ
てお母さんに言われるし。休むんなら休むで事前に連絡入れてくれないと、
こっちにだって都合があるんだ。それで、今週の予定を聞いとこうと思って。
そういう和谷こそ、手合いもないのに何してるんだよ」
「オレ?オレはゴールデンウィークの…」
実のところ和谷には、ヒカルに会うついでにイベント不参加の件を棋院事業部
に伝えるという大義名分があった。やましさを払拭すべく、和谷は正直にヒカ
ルがイベントで自分の代理を務めることを話そうと思ったのだが、後ろに立っ
ているヒカルから余計な話をするなと小声で袖を引っ張られ、そのまま言葉を
濁した。
「オレは元々上の階に用事があるんだよ。その前に進藤にもちょっと野暮用が
あって…っと、これ、やるわ」
和谷は鞄から小さなカードを取り出し、ヒカルに手渡した。どうやらそれは手
製の名刺らしく、中央に大きな字で『和谷義高』と印字してある。裏を返すと、
数字の羅列が走り書きされていた。
「表にオレの住所と電話番号とケータイ番号が載ってる。裏にあるのは伊角さ
んのケータイ番号。伊角さんにも了解とってあるから、何かあったらどっち
かに連絡くれよ。っていうかさ、お前も早くケータイ買え」
ポンとヒカルの肩を叩き、頑張れよと声をかけて和谷は部屋を出て行った。
残されたヒカルと越智は、しばらく無言で和谷の後姿を見送っていたが、どち
らも対局を控えた身なのでいつまでもここに居るわけにはいかず、越智を無視
してヒカルは靴を履こうとする。素っ気ない態度のヒカルに、越智は冷ややか
な声で言った。
「ボクのことをすごい目で睨んでいったよ。まるで番犬だな」
越智は少し下がり気味の眼鏡を上にあげると、感情の読めない眼差しをヒカル
に向け、口の端で小さく笑んだ。
「和谷を手なずけるのは勝手だけど、躾はちゃんとしときなよ。ああいうタイ
プは見境なくじゃれついてくるから。公衆の面前で恥をかくのは自分だよ。
それはそうと、今週の土曜は来れるよね」
「………ああ。これで最後だよな」
「最後。8枚目だよ」
「約束だからな」
「生憎ボクは約束を破った事なんて一度もないんだ」
「なら、いい」
そっぽを向いて対局場へ移動しようとするヒカルの背に、越智は抑揚のない声
でお互い連勝ガンバロウ、と白々しい応援をしてみせた。
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和谷が事業部を訪れている頃、同館内編集部では、雑誌記者の天野とアキラが
月刊誌のとある企画について打ち合わせを始めていた。
「忙しいのに急に呼び付けて済まなかったね」
「いいえ。今日も明日も手合いが入っていないので、ボクも丁度都合が良かっ
たんです」
嬉しそうにいそいそと資料を取り出す天野に対し、アキラは品の良い笑みを浮
かべてみせた。そして鞄から手帳を取り出すと、5月のページを開いた。
「お話は、韓国の件ですよね?」
「うん、大筋は前に話した通りでいいんだけど、実は帰国後に提出してもらう
予定の原稿、あれを毎晩メールで送ってもらえないかと思ってさ」
「メール…ですか」
「堅苦しい文章じゃなくていいんだ。君の見たまま、感じたままを素直に綴っ
てくれればいい。レポートというよりは日記だね。──煙草、いいかな?」
「どうぞ」
天野はアキラの許可を得、煙草に火を点けた。灰皿にはすでに大量の吸殻が投
げ込まれ山積みの状態だったが、天野は全く気にせずその上に灰を落とした。
「塔矢君、棋院のHPは見たことがあるよね」
「ええ、毎日欠かさず覗いてます」
「そこに、君が韓国に滞在している間だけ塔矢アキラのコーナーを作ろうとい
う計画があるんだ。君から届くメールを毎日更新するだけなんだけど、韓国
の囲碁事情を若い世代の人たちに知ってもらえる、良いきっかけになればと
思ってね。日本は世界選手権の成績も振るわなかったし、若い人はもう少し
危機感を持つべきなんだよなぁ」
「…すみません」
自分の事を言われているようで、アキラはつい頭を下げてしまう。それを見て、
天野は慌てて訂正した。
「いや、塔矢君はよく頑張ってくれてる方だよ。ウチとしては不甲斐無い大人
より、正直君を推薦したいくらいだ…内緒だけどね」
天野は煙草をもみ消すと、韓国囲碁親善旅行に関する資料をアキラに手渡した。
今年、韓国都市部の囲碁普及センターが設立十周年を迎える。その記念イベン
トへ、アキラは日本棋院代表として参加することになった。まだ実績の少ない
若手棋士のアキラが抜擢されたのは、もちろんその実力が認められたからでも
あるが、一番の理由は父である塔矢行洋が同イベントに招待選手としてすでに
参加が決定していたからだろう。韓国側も塔矢父子の来訪を心待ちにしている
し、日本棋院としても公式戦初の親子対決を見逃すわけにはいかない。編集部
も月刊誌の部数アップに向けて、ぬかりなく準備を進めている真っ最中なのだ。
「ところで、お父さんの塔矢先生はいつ出発するの」
「5月3日です。ボクも、父と一緒に発つ予定です」
「じゃあ空港に押し掛けて、出発前にちょこっと取材させてもらおう。二人共
揃ってるんなら、こちらも手間が省けて助かるよ」
声を弾ませる天野に便乗することなく、アキラはただただ曖昧な微笑みを返す
ばかりだった。
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「失礼しまーす」
打ち合わせを終え談笑する天野とアキラは、元気良く室内に入ってきた一人の
少年に気が付いた。
「和谷君じゃないか。出版部に何の用だい?」
キョロキョロと辺りを見回していた和谷は、見知った天野の姿にホッと安堵の
溜息をつき、屈託なく笑う。
「ええっと、3日のフラワーフェスタなんですけど、オレ行けなくなっちゃっ
て。代わりのヤツが行くことになったんでこっちにも伝えとくよう事業部の
人に言われたんですけど」
そこまで一気に伝えた和谷は、天野の隣の椅子に座っているアキラに気が付き、
表情を固くした。和谷に何の遺恨もないアキラは、座ったまま小さく会釈をす
る。和谷も最低限の礼儀として、軽く頭を下げ返した。
「代わりの人の名前、わかる?ならここに書いてくれるかな」
和谷は天野の差し出した黄色いメモ帳に、『進藤ヒカル』とあまり自慢できな
い字で記入した。
「それじゃ、オレ帰ります」
憮然とした表情で和谷は二人に背を向けた。塔矢アキラは苦手だ。苦手という
か気に入らない。何かされた覚えはないが、とにかく昔からダメな相手だった。
生まれつき相性の悪いヤツはいるもんだと院生時代から割り切っていたが、今
はそこに面白くないオマケも付け加えられた。即ち、進藤ヒカルが懐いていた
という事実。どういう理由でか最近は接触がないようだが、それでも一時期の
二人──まさに蜜月と呼ぶに相応しい頃の二人を知っている和谷にとって、ア
キラは目下最大の敵と言えなくもない。
ケチがついたと呟いて去っていく和谷を、天野は不思議な面持ちで眺めた。
「なんというか、彼はあっさりしてるね…。お、代理は進藤君だよ」
「えっ」
アキラは腰を浮かせ、天野から奪いかねない勢いでメモ帳を覗いた。
「…これは…?」
「フラワーフェスタといって、東北のM県で行われる囲碁のイベントなんだけ
ど、和谷君の代わりに進藤君が参加することになったみたいだね。あの二人、
同期生だけあってやっぱり仲が良いんだな」
天野の言葉を最後まで聞き終わらないうちにアキラは立ち上がり、
「──ごめんなさい、天野さん。すぐ戻ります」
そう言い残して部屋の出口へと走って行った。
アキラの突飛な行動にはそれなりの理由があるのだろうが、天野には何がなん
だかさっぱりわからない。だが、年齢のわりには出来過ぎた少年であるアキラ
にも、感情だけで動く若者らしい一面がある事を知り、嬉しく思う。
そして、ふと気付く。
「そういえば、最近進藤君と一緒にいるところを見かけないな…」
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