失着点・展界編 41 - 45
(41)
「進藤」
ヒカルは驚いて振り返った。ヒカルを追って来た緒方は、少ないとはいえ
人通りがある大通りの歩道から1本小道に入った処へさり気なく誘導した。
「…オレに会いに来たのか。」
低く静かな問いかけにヒカルはわずかに胸を踊らせながら素直に頷いた。
「…来なさい。」
顔が上気していくのがわかる。…自分の事を気に掛けて、追ってきてくれた。
そんな緒方と言う人物が特別な人のように感じられた。
忍ぶように早足になる緒方の後をついていく。
緒方が向かった先には駐車場があり、そこに緒方の愛車があった。
ロックが解除され、何を言われたわけではなかったが、ヒカルは助手席に
乗り込んだ。二人を乗せた車は滑らかに停車枠から滑り出し、
入り組んだ裏通りを迷う事なく走り抜けて行く。
その車を、不審気に見送る一人の人影がある事にヒカルは気がつかなかった。
駐車場から直通のエレベーターで上がり、緒方の部屋に向かう。
…あらためて訪問することに緊張感が走った。自分の意志でここに来たことに
後ろめたさがあった。アキラがいない時に、アキラ以外の人物の部屋を訪ねる
という行為そのものに対して。
ただこれは、問題を解決するためなのだ。アキラの名前は絶対に出さない。
緒方に話を聞いてもらいたかった。自分が抱えている問題が、たいした事では
ないのだと笑い飛ばして欲しかった。
部屋に入るとすぐにあの静かなモーター音が耳に入って来た。熱帯魚の水槽の
方から聞こえて来る。あの夜の事がヒカルの中に一気に蘇って来た。
緒方の唇の感触と共に。
(42)
「…いいかげんにしろ。」
背を向けて上着を脱ぐ緒方が冷ややかに言葉を発し、ヒカルはドキリとした。
「え…?」
「物欲しそうな顔をして夜の街をうろつくんじゃない。優しく声を掛けて
頭を撫でてくれる奴になら誰にだってついて行きそうだったぞ。」
カアッとヒカルは赤くなった。頭に血が登って行く。ある意味見透かされて
いる。現にこうして、自分はここに来ているのだ。
「…コーヒーでも飲むか?」
ヒカルは何も答えなかった。
リュックを背負ったまま突っ立っているヒカルの前を横切って、緒方は
キッチンに立ちポットに水を入れ、湯を湧かし始めた。
そのままその場でタバコをくわえて火を点ける。
フィルターの中の焦茶色の泡の中に細く湯を落とす作業の間沈黙が続いた。
タバコとコーヒーの香りが絡み合って漂う中、やがてフレッシュと
スティックシュガーが添えられたコーヒーがテーブルに置かれた。
「…それを飲んだら、家に送ろう。」
緒方はカウンターにもたれたままタバコを灰皿に置き自分の分に口をつける。
だがヒカルは押し黙ったまま緒方を睨みつづけていた。
「…るくせに…、」
体が震えてくるのを自分の腕で必死で押さえる。
「…わかって…るくせに…、…オレがどうして…ここにきたか…」
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精一杯のヒカルの抗議に対して突き放すような緒方の視線は変わらなかった。
が、緒方はカップをカウンターに置き、進藤に近付いて肩に手を
置こうとしてきた。
「…悪かった、言い過ぎた。」
バシッとヒカルはその手を払い除けた。
「オレに触るな!!突き放すくらいなら…どうして…」
「…家に帰るんだ。進藤。」
払い除けられた手でもう一度緒方はヒカルの肩を掴もうとした。ヒカルは
両手で再度振払おうとする。
「…なんで声をかけるんだよ…!!」
そのヒカルの両腕ごと、今度は緒方の両腕がヒカルの上半身を包み込むように
抱き締めて来た。
「…離せよ!!」
体を振って逃れようとした。だが玄関脇の壁際で大きくは動けなかった。
緒方に強く抱き締められ、ヒカルは暴れるのを止めた。
「…けて、…助けて…よ…、緒方せんせ…」
涙混じりになったヒカルの声は、そこで途切れた。
唇が塞がれたからだった。
玄関脇の壁際で緒方は身を屈め、腕をヒカルの背中まわし手のひらで後頭部を
抱いてヒカルの唇に自分の唇を重ねていた。
ヒカルは最初ただ驚いたように目を見開いていた。だが、すぐに目を閉じ、
記憶の中にあるものと混ぜ合せるようにしてその感触に浸った。
(44)
ヒカルは口を開いて緒方の舌を迎えたが、舌先がほんの少し触れ合う程度の
ところからは入って来なかった。それでもなお緒方の舌を吸おうとするヒカル
をなだめるように、ヒカルの顔を両手の平で包んで緒方が離れた。
ヒカルはしばらくポーッと緒方を見つめていた。
さっきまでの全く感情の見えない冷たい表情ではなく、幾分不機嫌そうに
ムスッとしている緒方の顔がそこにあった。
「…やれやれ…。」
緒方はため息をつきながら眼鏡を外すと手を伸ばして脇の棚の上に置いた。
壁に手をついてヒカルに問いかける。
「…少しは落ち着いたのか?」
「…!」
ヒカルは赤くなってそっぽを向いた。その顔を大きな手が捕らえて正面にし
クイッと上に向かせる。
「…助けて、と言ったな。…また傷の手当てをしてもらいに来たのか?」
「ち、違うよ!!」
手を振り払い赤くなってヒカルは怒鳴った。だが再び緒方に顔を掴まれる。
「…オレにはお前が自分で自分を傷つけようとしているとしか思えん。」
その言葉を聞いて、緒方の手の中で、ヒカルはフッと笑った。
そうなのかもしれない。痛みを忘れようとして別の痛みを求めている。
「…そうだよ。…もう一度傷の手当てして欲しいんだよ、先生に…」
「…本気で言っているのか?」
「…シャワー、使っていいかな…、緒方センセイ…。」
少し空ろな瞳で笑みを浮かべたヒカルの表情は緒方をゾクリとさせた。
(45)
緒方の返事はなかった。ただじっとヒカルを見つめている。やはり何度見ても
色が薄いという印象のその目は、ある種の同情を持っているように思えた。
それを振り切るようにヒカルは緒方の壁に付いた手の下をくぐり抜けて
リュックを降ろし、上着のシャツを脱ぐ。チラッと緒方を見ると、
緒方は壁にもたれて腕組みをし、ヒカルの様子を観察している。
ヒカルは緒方と目を合わしたままTシャツを脱ぎ、靴下を取り、ジーパンの
ファスナーを下ろした。
その時緒方が壁際から離れてヒカルに近付いてきた。
「…本当にいいのか。」
ヒカルは少しビクリとする。
「…言っておくが、子供の遊びじゃないぞ。」
そう。子供の遊びじゃないものを、自分は欲しい。
そう答える代わりにヒカルは全てを脱いだ。
それと同時に背後から緒方に強く抱き締められた。
緒方はヒカルの髪にキスをし、顔を横に向かせて斜め上から覆いかぶさるよう
にしてヒカルの唇を塞ぐ。首筋から肩に舌を這わせ、そしてまた唇に戻る。
突如始まった激しいキスの応酬にヒカルの体が戸惑う反応を示したが、両手首
を掴まれ、余分に動く事を制限されてそのまま長椅子の上に押し倒された。
「…緒方せんせ…待っ…」
シャワーを浴びたがったヒカルを辱めるように、肩から腕、首から胸、腹部と
あらゆるところを何かを味わうように舌を這わしてなめとって行く。再度
唇を吸うために戻って来た緒方の目は、完全に、先刻までの分別ある“大人”
のものではなく、征服する獲物を捕らえた“男”のものと変質していた。
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