とびら 第五章 41 - 45


(41)
胃が重くてしかたがない。ひどい胸焼けもする。アキラは整腸剤を飲んだ。
あの後、席に戻った二人はまるで張り合うように食べつづけた。
だがその様子には大きな差があった。
アキラはほとんど無理やりといった感じで肉を詰め込んだ。
一方のヒカルはけろりとしていて、最後の締めのうどんをきれいに平らげ、デザートの
抹茶アイスも美味しそうに食べていた。
そして家に戻った今、ヒカルは緒方の晩酌につきあっている。
「もう一枚、食べてもいい?」
「好きなだけ食え」
ワインを飲みながら緒方が上機嫌に言うと、ヒカルはうれしそうにサラミをつまんだ。
居酒屋で大量に酒を買い込んだ緒方は、今日はアキラの家に泊まると言った。
断ろうとしたが、ヒカルが泊まってほしいと言い張った。
腹が立って腹が立ってどうしようもなかった。もう自棄で承諾した。
アキラは転がったビールの缶を片付けたり、風呂を入れたりした。
ヒカルはチーズをかじりながら緒方の話に聞き入っている。
本当はヒカルと話したいのは自分なのに。
だが店でのことで、気まずくてろくに口をきいていない。
「進藤、おまえも飲むか?」
真っ赤な液体がグラスのなかで揺れている。
「いや、オレ酒は弱いから。ちょっと飲んだだけで、すぐに理性がなくなるんだ」
「ならますます酔わせてみたいな。一口くらいどうだ」
まるで飲み屋の酔っ払いのような緒方にアキラは苛立った。
「緒方さん、未成年にお酒をすすめるなんて、どういうつもりですか」
おかしそうに笑う声がますます神経を逆撫でする。
「アキラくんは本当にお固いな。少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか」
「ボクはお酒は嫌いなんです。それに緒方さんの酔っている姿を見ていたら、とても飲み
たいとは思えません。だいたい緒方さんの飲み方は節操が無さ過ぎです」
緒方はやれやれといったふうに肩をすくめると、黙ってグラスを空けた。
「塔矢ってけっこう飲めそうに見えるけどな。オレはすぐに酔うけど、嫌いじゃないぜ」
「そうだ、昔の偉い坊さんも酒は飲めたほうがいいと言っている」
緒方の差し出すグラスにヒカルはワインをそそいだ。
酌をさせるのは気に食わなかったが、異を唱えてもヒカルは何を気にしているのだと言う
だろうからアキラは耐えた。
本当に今日は我慢させられてばかりだ。


(42)
「おい、進藤。これを食ってみろ」
緒方がイカの塩辛のびんを開けた。ヒカルはそれを箸でつつく。
「別にただの塩辛だよ」
不敵に笑うと、緒方はワインの入ったグラスをヒカルに向けてきた。
「一口、飲んでみろ」
アキラが止める間もなく、ヒカルはそれを口にした。とたんに舌を出した。
「まっずー!! 何だこれ! 生臭いっ」
「塩辛とワインは合わないだろう」
大口を開けて緒方は笑った。自分もされたことがある。
ヒカルはジュースを飲み干したが、まだ顔をしかめている。
「緒方先生、ひでェや」
恨めしそうに睨むが、本気ではないことはわかる。
「酔っ払いのすることだ、大目に見てくれ」
「緒方先生って酒を飲むと、することが子供っぽくなるよな。大人気ないっていうかさ。
前だって、じゃんけんで……」
はっとしたようにヒカルは言葉を切った。緒方はそんなヒカルを見て意味ありげに笑う。
アキラはむかむかしたものが胃から込みあげてくるのを感じた。薬の効き目が遅い。
「ホテルでのことか?」
「塔矢! 違うからな! 仕事で一緒だっただけだからな!」
慌ててヒカルが弁解してくる。
「そう」
その様子に内心安堵しながらも、アキラはそっけない相づちを打った。
「おやおや、まるで浮気をごまかそうとする夫のようだな」
どうして緒方はいちいち自分の癇にさわる言い方をするのだ。故意なのだろうか。
「アキラくん、あの夜、進藤は俺の部屋に来たんだぜ」
「部屋には誰かいたからなっ」
誰がいようと、ヒカルが部屋に行ったことに変わりはないようだ。
「……それでどうしたんです?」
緒方とヒカルは顔を見合わせた。二人にしか通じない視線。
また疑心暗鬼におちいりそうになる。だがその前にヒカルが口を開いた。
「碁をうってもらったんだ」
意外な言葉にアキラは拍子抜けしてしまった。


(43)
それは本当だろうとアキラは思った。そこで興味がわいてきた。
「どっちが勝ったんです?」
「進藤だよ」
あっさり緒方が言うと、ヒカルはうろたえて両手を大きく振った。
「緒方先生、すごい酔ってたから。ほんの遊びみたいな一局だったんだ」
「だが、あの一局は忘れられん」
緒方は目を閉じた。まぶたの裏にはそのときの盤面が浮かんでいるのだろう。
「……オレも。だってオレ……にとって、あの夜は、あの一局は……最後、だったから」
ヒカルは神妙な顔をして、かみしめるように言った。
「進藤?」
途切れさせた言葉のあいだに何を隠しているのだ。
アキラは問い詰めたかった。やましいものではないとはわかっている。
だがそれは聞き逃していいものではないと何かが告げている。
「進藤……」
呼びかけられたヒカルはぱっと顔を上げ、アキラが聞くよりも先に尋ねてきた。
「塔矢、オレ風呂に入ってもいいかな。あ、緒方先生が先のほうがいいかな」
「俺は入らん。酔いがさめるからな」
風呂の場所を緒方に教えてもらうと、ヒカルはさっさと部屋を出て行ってしまった。
タイミングを逃してしまった。もう聞けない。
緒方は台所に行き、まな板と包丁、醤油、そしてアボガドを持って戻ってきた。
日本酒の瓶に手を伸ばすので、アキラは呆れてしまった。
「ビール、ワイン、その次は日本酒ですか?」
「節操がないと言いたいのだろう。だが、これくらいなんだ。世の中にはもっと節操無し
がいるぞ。きみのすぐそばにもいるんじゃないか」
アキラは眉根を寄せた。言いたいことがあるならさっさと言え、という心境だった。
しかし緒方はいつもと同じように飄々としており、何も言わない。
アボガドを真ん中で割る。大きな種に包丁を突き刺し、ぽんっとそれを抜き取った。
それからまわりの皮を剥き、刺身にし始めた。
まるでアボガドにしか関心がないように見える。


(44)
緒方はアボガドを一切れ醤油につけて口に放り込み、それからぐいっと酒を飲んだ。
そのあいだアキラはずっと緒方を凝視したままだった。
「アキラくん、包丁で果物や野菜の皮は剥けるかね」
「それくらい出来ますよ」
何を言いたいのかわからず、アキラは全身を緊張させていた。
「昔は包丁は危ないから、小さなナイフを使っていたな」
緒方は生まれたときから今までの自分を知っている。
それはアキラに安心感に似たものを与えてきたが、このときは違った。
自分を知っている緒方が得体の知れない人物に思えた。
「いきなり大きな刃物を扱うのは危険なんだよ、アキラくん。きみはまだ十五歳だ。下手
に手を出したら、自分を傷つけてしまう」
「……何をおっしゃりたいのです」
「聡明なきみなことだ、わかっているだろう?」
ヒカルとのことを言っているのか。ヒカルが危険な刃物だと、そう緒方は言いたいのか。
「なぜ、緒方さんにそんなことを言われなくてはならないのです」
「きみが心配なんだよ」
「そう言いながら、緒方さんも欲しいと思っているのではないのですか!?」
アキラは座卓を両手で叩いた。上に乗っていたものが一瞬、宙に浮くほどの強さだった。
緒方はため息をつき、それだよ、と言った。
「普段は冷静で、決して誰にも乱されることのないきみを、そんなふうにさせる。囲碁に
関してなら俺もそれでいいと思うさ。だが恋愛となったら放っておけない。いや」
緒方は眼鏡を取り、服のすそでレンズの汚れを拭い取る。
「果たして恋愛と呼べるかな? きみは真面目な子だ。本来なら一対一でつきあうのに、
あいつは……」
「緒方さんは黙っていてください!」
アキラは声を張り上げた。これ以上、緒方に踏み込んでほしくなかった。
怒り出しそうなのを静めるために、膝の上の手を強く握りしめた。
眼鏡に隠されない、緒方の色素の薄い両の目が大きく開かれた。
「……知っているのか」
「何をです? そもそも緒方さんが何の話をしているのか、ボクにはわかりません」
アキラは笑った。だがそれは強張っていたと自分でもわかった。


(45)
暖房を入れているのに、部屋の温度が急激に下がっているように感じた。
緒方とアキラのあいだの空気も冷えて沈んでいた。
そこに軽快な足音が聞こえてきた。一番大きくなったところで、ふすまが開かれた。
「ここは暖かいな。廊下は寒いや。風呂、冷めないうちに早く入れよ」
風呂上がりで、頬を上気させたヒカルが部屋に入ってきた。
ヒカルはジャージ姿だった。だが中に大きめの服を着用しており、それが腰の辺りまでを
すっぽりとつつんでいた。
「石鹸とかシャンプーとか、タオルとか勝手に使っちゃったけどいいよな」
ヒカルの髪から雫がぽたぽたとたれている。シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
かぎなれた匂いのはずなのに、それはアキラを陶酔させた。
「塔矢? どうしたんだ?」
顔をのぞきこまれ、一段とアキラの脈拍が上がっていく。
「何でもない。入るよ。そうだ緒方さん、家の戸締りをお願いできますか? それから
父のいつも使っている部屋を少し整理していただけないでしょうか。ボクではわからない
ものがありますので」
「おいおいアキラくん、こんな酔っ払いにそんなことさせるのか?」
「オレ、手伝おうか?」
「きみは客なのだからここでくつろいでいてくれ。緒方さん、よろしくお願いしますね」
自分が風呂に入っているあいだに、緒方に変な行動をとられてはたまらない。
緒方は盛大な息を吐いて立ち上がった。しかしヒカルが呼び止めた。
「ねえ、これ何? 食べてみてもいい?」
「……それはアボガドだ。食べ過ぎるなよ。さあアキラくん、行こう」
少しくらい二人きりになりたかったのに、緒方に腕をつかまれ脱衣所まで送られた。
アキラはいきりたちながら服を脱いでいった。
お湯は冷えた身体にはとても熱く感じられた。少しずつ身体を沈めていく。
肩までつかると、ようやく人心地ついた。しばらく何も考えずに湯気を目で追った。
位置が変わっているシャンプーのボトルに気付いた。
(そうか、進藤が入ったんだものな。場所くらい……)
そこまで考えて、アキラは赤面してしまった。
自分は今、ヒカルの入った風呂の湯につかっているのだ。
ヒカルの家で風呂に入ったことは何度もあったが、そのときはいつも最初だった。
(進藤の後に入るのは、初めてなんだ)
たったそれくらいのことで、どうしてこんなに胸が痛いほどどきどきするのだ。
アキラはそっと湯をすくいあげた。手のなかで揺らめいている。
透明なそれを見つめ、そしておもむろに飲み干した。



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