うたかた 41 - 45


(41)
「進藤、インプリンティングって知ってる?」
「いん…?知らない…」
 冴木は目を細めてヒカルの頭を撫でた。
「ヒヨコが生まれて初めて見たものを親だと思ってついてまわるだろう?あれだよ。刷り込みとも言うな。」
 そういえばヒカルもその前髪のせいか、ヒヨコのようだ。本人に言ったら、顔を真っ赤にさせて怒るだろうけど。
「あー…なんか聞いたことあるかも。」
「進藤は今、インプリンティングの状態なんだよ。」
 ヒカルはいまいち冴木の言わんとしていることが飲み込めず、大きな瞳をただぱちぱちと瞬かせていた。
「だから、進藤は加賀のことが好きなんじゃなくて、初めてセックスした相手だから、好きなんだと思いこんでるんだってこと。」
「そ…、そんな‥こと……」
「違うって言い切れるのか?」
 俯いて黙ってしまったヒカルの顎に手をかけて、上を向かせる。
「…試してみる?」
「……な、にを…?」
 ヒカルの肩が小さく震えているのを見て、冴木は自分がひどく嗜虐的な気持ちになっていることに気付き、思わず苦笑した。
「オレも進藤に刷り込みしたいなぁ。」
 息がかかるほどの近さでそう囁くと、ヒカルはたちまち熟れたトマトのように真っ赤になった。
「お、おれ…っ、」
 座ったままじりじりと後ろに下がるヒカルの腰に手を回し、熱い頬に口づける。
「進藤」
 ヒカルの渇いた唇を舐めて下唇を甘噛みすると、声と溜息の中間のようなものを洩らした。
「オレだって、進藤が望むならずっと傍にいてやる。」
「…さえ‥き、さ…」
「寂しいときはこうやって抱きしめててやるよ、進藤。」
 落とせる。
 冴木がそう確信した瞬間、思いがけず邪魔が入った。
「あ…。」
 ヒカルに触れている冴木に怒鳴りかかるような、大音量の着メロ。
「は、はい。」
 冴木の腕をくぐり抜けて、ヒカルが電話に出た。相手はだいたい想像がつく。
「あ、加賀…」
 ヒカルの声が何となく嬉しそうなのも癪にさわる。
(随分タイミングいい電話だな。どこかで見てるのか?)
 冴木に背を向けているヒカルの腰を抱き、ケータイに当てている方とは逆の耳を舐め上げる。
「ひゃっ…!」
 さ、冴木さん、とヒカルが小声で抗議したが、それすら可愛くて冴木はもう一度ヒカルの肩口に顔を埋めた。
「え?う、ううん。なんでもない。」
 ヒカルが加賀に言い訳しているのを聞いて、少し優越感が湧く。
 加賀は、いまヒカルが他の男の腕の中にいることを知らないのだ。
 段々大胆になってゆく冴木の手に、ヒカルが手足をばたつかせ始める。
「ちょっ…冴木さんっ!!」
 思わず大きな声を出してから、ヒカルはハッとしたようにケータイを見た。


(42)
『冴木って誰だ?今そこにいんのか?』
 明らかにさっきより機嫌が悪くなっている加賀の声に、ヒカルは慌てた。
「いや、あの、ほら、えっと…」
 ヒカルは言い訳をしようとしながらも、なんで自分が言い訳しようとしているのかわからなかった。これでは浮気していたみたいではないか。
(でもキスしちゃったし…。)
『おまえ家にいるのか?』
「え?うん…」
『じゃあ今から行く。』
「はあ!?」
『なんだよ、オレが行くと都合悪いことでもあんのか?』
 いつもより低く押し殺した声は、加賀が怒っている印だ。ヒカルは背中が冷たくなるのがわかった。
「わかった、待ってる…。」
 電話の切れる音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
「…加賀が今から来るって。」
 通話に気を取られていて気が付かなかったが、今の自分の格好を見ると、加賀から借りたアロハが片腕だけ脱がされていて、下のシャツも捲り上げられていた。
「そうか、残念。」
 冴木は爽やかに笑うと、ヒカルの肌から手を離した。
「修羅場になる前に帰ろうかな。進藤もその方がいいだろう?」
 答えに詰まるヒカルの柔らかい頬を軽くつまむ。
「それに、今日は充分収穫あったしね。」
「……!」
「進藤はすぐ赤くなるなぁ。期待しちゃうじゃないか。」
「はっ…早く帰れよ!!」
 ヒカルは冴木の背をぐいぐいと押して、ドアの前へ連れて行った。
「玄関の外まで見送ってくれよ。」
 手を繋ごうとすると、ヒカルは両手を背に回して隠してしまった。
「そんなに警戒しなくても…。」
(…まあ、そんなとこも可愛いんだけどね。)
 どうやらだいぶ重症らしい。


(43)
 雨は止みそうで止まなかった。
 ヒカルは肩や腰に伸びてくる冴木の腕をかわしながら、玄関の外へ出た。
 まだ昼を少しばかり過ぎた時間なのに、空は暗く重い。生暖かいが強い風は、これから上陸する台風が並みのものではないことを示していた。
「じゃあ、気を付けてね。」
「ああ。」
 そう言って顔を近付けようとすると、ヒカルが素早く冴木の唇を手で押さえつけた。
「だめだからな!」
 あまりにも必死で抵抗する姿に、傷つくどころか笑えてしまう。
「わかったよ。」
 バイクの音が段々大きくなってくる。ヒカルはそっちの方を見て顔を輝かせた。
(あれが、加賀か…。)
 よほどスピードを出してきたらしい。徐行して止まるのではなく、思いきりブレーキをかけて加賀のバイクは停止した。
 メットを外し、バイクから降りた加賀を改めて見て、冴木は嫌な予感がした。
 どうせ高校生のガキだと侮っていたが、身長は自分と変わらない程あるし、顔立ちも整っていた。そして何より、その瞳は全然子供のものではなかった。
(なんでこんなに世の中酸いも甘いも知ったような瞳してんだ、こいつ…。)
 加賀は二人の方へ歩いてきて、まっすぐ冴木を睨み付けた。
 そのままお互い値踏みするように、上から下までじろじろと見る。険悪な雰囲気を感じ取って、ヒカルが二人の間に入った。
「さ、冴木さん、もう帰るんだよね。気を付けてね。」
 引きつった笑顔でさっきと同じ台詞を繰り返すヒカルに、冴木は余裕の笑みを返した。
「ああ、進藤ももう一度髪よく拭いておくんだよ。」
「うん。」
 頷くヒカルにもう一度微笑んで、冴木は車に乗り込んだ。
「そうだ進藤、ちょっと。」
 窓を開けて手招きする。口元に片手を当てて、内緒話のようなポーズをとると、ヒカルはすぐに察して耳を近付けた。
 すかさず音を立てて頬に口づける。
「こういうベタな手に引っかかるのが、進藤の可愛い所だよね。」
「っ…!!」
 テメェ、と低く呟いた加賀を無視して、冴木は車を発進させた。


(44)
「………」
 冴木の車が見えなくなってしばらく、加賀とヒカルの間に気まずい空気が流れた。
 ふと、加賀の手がヒカルの頬に伸びる。
「え…ちょ、イタッ…痛いよ加賀ぁ!」
 嫌がるヒカルを押さえつけて、加賀は冴木がキスした場所を何度も擦った。
「もう!何するんだよ!!」
「……別に。」
「………怒ってんのか?」
「怒ってねえよ。」
(うそつき。)
 加賀の声は不機嫌なままだ。
 ヒカルは冷たい加賀の手を取って、両手で握りしめた。
「せっかく来たんだから、あがってくだろ?」
 ほんの少し逡巡して、加賀は、ああと短く答えた。

 いつの間にか雨足は強くなってきていた。


(45)
「誰だよ、あいつ。」
 加賀はヒカルの部屋に入るなり、そう言った。
「え?」
 わざととぼけるヒカルを、加賀は方眉を上げて一瞥した。
「あの冴木ってやつと二人っきりで会うと、おまえ喰われるぞ。」
 先ほどまで冴木が座っていた碁盤の前の座布団にドカッと音を立てて座り、胸ポケットからタバコを取り出す。ヒカルは慌てて加賀に近づくと、タバコの箱を奪った。
「オレの部屋は禁煙!!」
 加賀はライターを探す手を止め、ニヤリと笑うと手招きをした。
「じゃあタバコの代わりになるもん寄こせよ。」
「代わりって…」
 言い終わる前に、加賀の唇がヒカルの言葉を飲み込んだ。
 片方の手で後ろ髪を梳き、もう片方の手で猫の仔をあやすようにヒカルの喉元をくすぐる。
 ゆっくり唇を離すと、濡れた音が小さく聞こえた。
「……不意打ちすんな…」
 頬を染めたヒカルが、拗ねたように口をとがらせる。
「おまえがこんなに隙だらけだから、余計に害虫が寄ってくンだよ。」
「…冴木さんはいい人だぞ。」
 あくまで冴木をかばおうとするヒカルに、加賀は舌打ちをして背を向けた。
「前話したことあるだろ、森下師匠の研究会に行ってるって。冴木さんは森下門下の一人なんだ。」
「………。」
 黙ったままの加賀の背中に、ヒカルは遠慮がちに抱きついた。
「きっと、一瞬の気の迷いか、オレのこと少しからかっただけなんだよ。冴木さん彼女いるもん。」
「遊びなら、なおさらタチ悪ィだろ。」
 ヒカルはそれ以上言葉を紡ぐことができず、ため息をついて加賀の背中に片頬を押し当てた。



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