黎明 6章
(42)
隣室から苦しげなうめき声が聞こえる。彼が、彼自身と闘っている声が。
耳を塞いでしまいたい。いっそここから逃げ出してしまいたい。何も、何の手助けもできない自分
には、その声をただ聞いているのは辛い。それでも、彼から目を離すわけには行かない。彼を襲
う嵐が彼から去るまで、抱きしめてやる事さえできなくとも、それでも自分はここにいなければな
らない。嵐が激しすぎて彼を壊してしまう事のないように、何もできなくともそれだけは見守って
いなければならない。
耐え切れぬように、高い悲鳴が上がる。けれどそれを堪えようと彼が闘っている気配を確かに感
じるので、まだ、その声の内に彼の理性を感じるので、彼の闘いの中に入っていく事はできない。
求められてもいない手を、差し伸べる事はできない。
そうやってヒカルを襲う嵐との戦いはヒカルの勝利に終わる事もあり、またヒカルの敗北の果てに、
アキラが震える彼の身体を抱いて暖めてやる事もあった。けれど次第に彼の意思は嵐に負ける
事なく、アキラが隣室に彼の気配を窺っている内に、嵐が去っていく事の方が多くなっていった。
そして今日もまた、彼は嵐に敗れることもなく、ようやく隣室は静まり、苦しげながらも呻き声は寝息
にかわる。アキラはやっと重く苦しい息をつき、自らの身体をほっと寝台に横たえた。けれどアキラ
の胸の内にざわめく風がアキラから眠りを奪い、彼はまた、夜の闇に彷徨い出る。
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身を切るような風の冷たさに我が身を抱きしめながら縋るように立ち木にもたれかかり、夜闇に目
を凝らして、彼はかつて見た甘い夢を思う。
温もりを求めて彼が自分に縋りついてきたのは、本当にあったことだったのだろうか。最後にヒカル
の身体を抱いたのはいったいいつの事だったろう、とアキラは振り返る。
もはや彼は単に身体を暖めるための人肌の温もりを求めはしない。
けれどアキラの手は、身体は、すっかりヒカルの身体を覚えてしまった。
寒い、と震える小さな声を、肩の薄さを、腰の細さを、しがみつく腕の力を、指先にさえ込められた
力を、暖めてくれと訴える声を、おまえが欲しいと繰り返しねだり彼を求める声を、アキラは覚えて
しまった。
震えながらしがみついてくるあの細い身体を抱きしめて、身体全体で彼を感じたのは、彼が自分を
求めて、それでも望むものを与えない自分をなじったのは、あれはいつの事だったろう。
求められるのが嬉しかった自分を知っている。駄目だ、と、彼の求めを冷たく拒絶しながらも、求め
られることが嬉しくて、身体は熱く燃え上がった。そんな風に、最後に求められたのは、一体いつの
事だったろう。
彼の快復を喜びながらも、その一方で、もう一度求められたいと、もう一度あの身体を抱きしめたい
と望む自分がいる。
求められて、けれど彼の望みを冷たく拒む。拒むからこそ、熱く求めてくる。その熱が、いま一度欲
しかった。失われてしまう事を知っているからこそ、それが欲しかった。
そのためにはどうしたらいいか、知っていた。
たった一片の香を、彼に与えてやりさえすれば、それでいい。
いっそ、そうやって、いつまでも彼が手元から逃げてゆかないように、常に自分を求め続けるように
飢えさせていたい。そんな望みが確かに自分の中にある事を感じて、アキラは自らの欲望の浅まし
さに絶望しそうになった。
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けれど彼がそんな風に自分を求めたことは、もうずっと遠い昔のことのように思う。
事実、ヒカルはもうほとんど正気に戻り、嵐は日を追って間遠く、また弱くなり、ついには彼を襲う事
もなくなり、ある朝、アキラがヒカルの部屋を訪れると、整然と座りアキラを待っていたヒカルが、静
かな声でアキラにこう告げた。
「俺、もう、大丈夫だから。」
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