落日 43 - 44
(43)
頬にポツリと何か冷たいものが落ちるのを感じて、ヒカルは小さく動いた。
身体の上に何か重いものが覆い被さるように乗っている。それを除けようとして突然、ヒカルはそ
の物体がなんであるか、思い至る。生臭い血の匂いが鼻をつく。己の身体が、もう動く事もない、
命を失った物体の下に閉じ込められていることを感じて、ヒカルは恐怖に身を震わせた。必死に
なって、まだ暖かさを残す重い肉を押しのけその下から這い出ようと、ヒカルがほんの少し身体
を動かすと、体内でずるりと何かが動くのを感じた。
瞬間、ヒカルの身体が硬直した。
「うぁあああああああああああああああああああ!!!」
絶叫と共に、どさりと重い音がして、ヒカルにのしかかっていた肉塊がヒカルの横に落ちた。
立ち上がることはかなわず、ヒカルは四つん這いになってよろよろとそこから逃れようとすた。
数歩動いた後、嘔吐感に襲われ、ヒカルは激しくえずいた。
ゴホゴホと咳き込みながら、ようやく一息ついて、恐る恐る振り返ると、そこにはあの夜盗達がまる
で一塊の小山のように重なり合っていた。男達のいずれかの身体に刀が突き刺さり、闇の中で刃
が鈍い光を放っていた。
つい、先刻まで、自分はあの下にいたのだ。
恐怖と嫌悪感に身体が震えた。一刻も早くこの場から立ち去りたかった。けれど、そこから動くだ
けの気力は、ヒカルには残されていなかった。
生臭い匂いが鼻をつき、身体全体がベタベタして気持ちが悪かった。夜闇の中ではそれが何かは
わからないが、それがあの男たちから流れ出た血であろう事は、容易に想像できた。そして下肢は
彼らが、そして自分が放った精液で汚れ、体内にも未だそれが残されているのだろう事も。ぐう、と
胃からまたこみ上げるものを吐き出そうとしたが、もはや吐くべきものも何もなく、苦い胃液を吐き
出すだけだった。
雨が次第に激しく降り始め、ヒカルの裸の背を雨粒が叩いた。
僅かに残されたヒカルの体力も体熱も奪っていくようなその雨が、けれど我が身に纏わりつく汚物
を洗い流してくれるのではないかと幽かな期待を持って、激しく打ち付ける雨を感じながら、ヒカル
は気を失った。
(44)
何かに顔を叩かれて彼は覚醒した。
雨は降り止んでいたが、代わりに激しい風が木々を揺する音が聞こえた。
また、何かが彼の体にぶつかった。風に煽られて折れた木々の小枝だろう。きっと、さっきも同じ
ように小枝があたって、意識を取り戻してしまったのだろう。ぴしゃりと濡れた葉が横向きに地面を
見ている彼の顔にぶつかって、彼の身体がひくりと動いた。
吹き付ける風に身を震わせながら彼はゆっくりと身体を起こした。
引き裂かれた衣が枝にひっかかり、風に煽られてなびいているのが目の端に入った。よろよろと
立ち上がり、腕を伸ばしてそれを取り、何とか原型をとどめているだけの単をかろうじて身に羽織っ
た。そしてよろめきながら、彼は足を動かした。振り向いてはいけない。振り返ってはいけない。振
り返って見たが最後、あれらが妖かしと変じて襲い掛かってくるような気がした。
あれほど激しく感じた雨でも、彼の身に纏わりつく汚れをすっかり洗い流すには足りなかった。泥
の匂いに混じって、血の匂いが生臭く彼の鼻に届いた。一歩一歩歩くたびに、下肢を伝わり落ちる
ものを感じた。汚れの上に濡れた衣を一枚羽織って、彼は陵辱の林から逃れ出ようと、必死に足
を進めた。
ぼつり、と何かが彼の背を叩き、ひっ、と小さな悲鳴を上げて、彼は思わず振り返ってしまう。それ
は続けざまにばたばたと彼の振り向いた顔を、肩を、背を叩く。ざあっと強い風が吹いて、彼のよろ
めく体は近くの樹に叩きつけられた。激しい雨が、また、降り始めてきた。もう涙も枯れ果てた汚れ
た面を上げて、彼は力弱い目で天を見上げる。けれどその目にはもはや何も映らない。月も星も
ないこの夜、ただ雨と風だけが彼にふりかかり、何かを映し出すだけの光はどこにもない。闇の中
で、叩き付ける雨が彼の顔を打ちながら、泥を流していく。ばらばらと叩き付けるような雨粒を感じ
ながら、彼はぎゅっと目を瞑り、小さく頭を振った。
そうして、彼はまた、ここから逃れようと、ゆっくりと歩き始めた。
|