黎明 43 - 45


(43)
身を切るような風の冷たさに我が身を抱きしめながら縋るように立ち木にもたれかかり、夜闇に目
を凝らして、彼はかつて見た甘い夢を思う。
温もりを求めて彼が自分に縋りついてきたのは、本当にあったことだったのだろうか。最後にヒカル
の身体を抱いたのはいったいいつの事だったろう、とアキラは振り返る。
もはや彼は単に身体を暖めるための人肌の温もりを求めはしない。
けれどアキラの手は、身体は、すっかりヒカルの身体を覚えてしまった。
寒い、と震える小さな声を、肩の薄さを、腰の細さを、しがみつく腕の力を、指先にさえ込められた
力を、暖めてくれと訴える声を、おまえが欲しいと繰り返しねだり彼を求める声を、アキラは覚えて
しまった。
震えながらしがみついてくるあの細い身体を抱きしめて、身体全体で彼を感じたのは、彼が自分を
求めて、それでも望むものを与えない自分をなじったのは、あれはいつの事だったろう。
求められるのが嬉しかった自分を知っている。駄目だ、と、彼の求めを冷たく拒絶しながらも、求め
られることが嬉しくて、身体は熱く燃え上がった。そんな風に、最後に求められたのは、一体いつの
事だったろう。
彼の快復を喜びながらも、その一方で、もう一度求められたいと、もう一度あの身体を抱きしめたい
と望む自分がいる。
求められて、けれど彼の望みを冷たく拒む。拒むからこそ、熱く求めてくる。その熱が、いま一度欲
しかった。失われてしまう事を知っているからこそ、それが欲しかった。
そのためにはどうしたらいいか、知っていた。
たった一片の香を、彼に与えてやりさえすれば、それでいい。
いっそ、そうやって、いつまでも彼が手元から逃げてゆかないように、常に自分を求め続けるように
飢えさせていたい。そんな望みが確かに自分の中にある事を感じて、アキラは自らの欲望の浅まし
さに絶望しそうになった。


(44)
けれど彼がそんな風に自分を求めたことは、もうずっと遠い昔のことのように思う。
事実、ヒカルはもうほとんど正気に戻り、嵐は日を追って間遠く、また弱くなり、ついには彼を襲う事
もなくなり、ある朝、アキラがヒカルの部屋を訪れると、整然と座りアキラを待っていたヒカルが、静
かな声でアキラにこう告げた。
「俺、もう、大丈夫だから。」


(45)
「俺、もう、大丈夫だから。」
静かな声で、真っ直ぐにアキラを見つめて、ヒカルはそう言った。
その静謐な目の光を見て、アキラはゆっくりとまばたきをした。
近いうちにこの日が来る事を、アキラは知っていた。
意を決したアキラはすいと立ち上がり、戸を開けて、ついてくるように、と、ヒカルを促した。立ち
上がろうとしたヒカルがよろめく。手を貸してやりたい思いを飲み込んで、彼が彼の足で立ち上
がり、歩き出すのを待つ。
萎えた足で踏みしめるように歩くヒカルを背後に感じながら、アキラはゆっくりと廊下を歩いた。

ある部屋の戸を開け、ヒカルがアキラの後をついてその部屋に入ると、アキラは静かに戸を閉
めた。そして部屋の隅に置かれていた香炉を手に取り、それを捧げるように持ちながら振り返っ
てヒカルを見た。
アキラの手の中の香炉を見てヒカルの視線が揺れた。香のもたらす甘い夢をヒカルは思い、
一瞬、その夢を追うように目を閉じ、けれどすぐにそれを振り切って目を見開き、また真っ直ぐに
アキラを見据えた。
アキラはそんなヒカルを鋭い目で見つめながら香炉に火を点けた。ヒカルは微かに眉根を寄せ、
けれど平静を保とうとこらえながら、それを見ていた。
甘い香りが部屋に漂う。ヒカルの身体が瘧のように震えた。震えながらも視線は香炉から離せ
ないようだった。アキラはヒカルのその様子を冷静に観察しながら手の中の香炉をかざし、甘い
香を吸い込んだ。
アキラの頭がその甘さにくらりと痺れた。
自分こそが、この甘い香りの与える夢に逃げ込んでしまいたい。そしてヒカルと二人で甘い夢の
中に漂っていたい。つらい事など全て忘れて。今はもういないひとの事も、決して振り向いてはく
れない、いつまでもいない人を想うつれない心のことも、なにもかも全て忘れて。今なら、まだ間
に合うのかもしれない。身体だけでも、いや、上手に操れば彼の心も、自分のものにできたの
かもしれない。香の見せるそんな幻惑が一瞬アキラを襲い、その歪んだ夢を映したようにアキラ
の顔が歪んだ。



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