平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 43 - 46


(43)
「怒ってないか?」
「怒ってないよ」
他にどう言いようがあっただろうか?
しかし、突然に突き放されて、ヒカルの体は燃え立った熱の行き場を探して戸惑
っていた。
「そうか」
安心したように微笑む伊角の手があがって、ヒカルの頬に触れようとしたが、その
指先は空中で止められたまま、さんざん逡巡したあげく、また引っ込められてしま
った。触れて欲しいと思ったヒカルの願いも虚しく。
「それより伊角さん、どっかでどうにかしてきた方がいいと思うんだけど」
指貫は着込んだが、二人とも前が中途半端に勃ち上がったままだ。布が擦れてかなり
きつい。
「ああ、そうだな」
そう。そうして、なかったことにして寝てしまおう。
二人は、体に滞る欲情を処理するために、立ち上がって、周りの人々を起こさないよう
に気をつけながら、それぞれ別の方向に消えた。
ヒカルは、すぐに自分で処理しおわって戻ってくると、部屋の隅に転がって、狩衣を
掛け物がわりに目を閉じ、気配をうかがっていたが、伊角の戻る気配はなかった。
その日。ヒカルはなかなか寝つくことができなかった。自分の手で簡単に前の始末を
つけただけでは、一度掘り起こされた体の熱は消えず、そのドロドロとした情欲は、
内から体を焦がす埋み火となってヒカルを苦しめたからだ。
ヒカルは何度も寝返りを打って、夜明け近くにやっと寝息を立て始めた。

この夜、伊角が生来の生真面目さゆえ途中でヒカルを離したりしなければ、最後まで
行き着いてしまっていたら、もしかしたらこの後の伊角の運命も、ヒカルの運命も、
他の者達の運命もまったく違ったものになっていたかもしれない。
だがそんな事は、この時の二人には、まったく思いもよらないことだったけれども――。


(44)
曇った空は、まるでそのまま触れられそうに近く重い。
その鈍色の天空を少し見上げてから、ヒカルは厩に向かった。
今日はまだ馬の世話を頼んでいる使用人は来ていない。
自分が起きるのが早すぎたのだ。
馬の柔らかな絹のような感触の鼻面をなでながら、ヒカルは溜め息をつく。
近頃、ヒカルはよく眠れないでいる。
伊角について夜議に参内し、明け方近くに帰ることなどしょっちゅうなのに、
深い眠りとは縁遠くなっている。
原因は簡単だ。体が眠らせてくれないのだ。あの夜、伊角の男らしい手で掘り
起こされ、最後までいきつくことなく放置されてしまったヒカルの官能は、
埋み火のようにヒカルの肢体の奥底でくすぶり、夜も更ければ、その赤い舌で
ヒカル体を嘗め回すようにいぶる。
ひどく淫猥な夢を見て、汗をかいて飛び起きるのもしょっちゅうだ。
暇をみて、あかりの元にも行ってみたが、あかりには申し訳ないことに、抱く
ことと抱かれることの欲求はまったく別のもののようで、ヒカルの体は、後ろ
を嬲られる快楽を求めて、夜ごとに泣いていた。
時に、自分自身で慰めようと手が前に延びることもあったが、その手は決まっ
て途中で止まる。
そんなことをすれば、終わった後にひどく虚しくなるのはわかり切っていた
からだ。
馬が、ヒカルの単衣のそでを物欲しそうに、くわえて引っ張り、ヒカルは我に
返る。
こうして考え事をしている間にも、火照るのが分かる自分の体がいっそ疎まし
かった。
使用人の仕事を奪ってしまうのは気が引けたが、厩の隅のの稲藁の山から
一抱え持ちだして、鉈で一尺程に馬達に切って与えてから、母屋に帰り、
狩衣に着替えて、門を出る。


(45)
夜は明けていたが、曇っているせいもあって、まだ通りは薄暗く人々の活動の
気配はない。
道端に生える犬蓼の実の赤さだけが、浮いて見える。
少し幅のある通りに出た所で、いつもの彼にあった。
「おはよう」
賀茂アキラだ。彼はこのところ、こうして毎日のようにヒカルを待ち伏せ
している。
ヒカルは、アキラのその挨拶に返事を返しもせずに歩みを進めた。
アキラがヒカルの様子を見て、眉をひそめ、何かをいいたそうに唇を震わせ
るのを視界の端に捉えたが、無視する。
足の向く先は、碁会所だ。
秋の終わりの風は、すでに耳を切るように冷たい。
「ついてくるなよ」
ヒカルは振り返らずに告げた。
「うっとおしいんだよ」
いつから自分達はこんな風になってしまったのだろう? そう。ひと月ほど前、
ヒカルが大事なものを失ってしまう前までは、自分達は友人として仲良くやっ
ていた。ヒカルはアキラがとても好きだった。
なのに、今はその存在に神経が逆撫でされる。そばにいてほしくない。
ヒカルが彼の人を失ってしまってすぐの、あの朝、アキラがヒカルの唇に
触れたあの時から、ふたりの間は何かがずれてしまったように、ぎこちなく
なってしまった。
いったい、どこで間違ってしまったのだろう。
前はこんなではなかった。
だが、今のヒカルは、正直言ってアキラが苦手だ。アキラの前に立つことが。
陰陽師というのは、誰でもこうなのだろうか? アキラの前にたっていると、
すべてを見透かされてしまう気がするのだ。自分が心の奥に隠そうとして
いるものまで。どろりとした想いの奥、この体で燃える人に知られたくない
官能の炎の色まで。
アキラにとっては、それはとんでもない言いがかりだったけれど。


(46)

彼にしたら、それこそ、自分が人の心を見通すことができたらよかったのに
と思っていたぐらいなのだ。
で、なければ、どうしてみっともないと考えながらも、毎朝毎夕にヒカルに
くっついて歩いたりするものか、と思う。
ひと月前は違っていたのに。
アキラとヒカルは日々の相談事をしたり、一緒に怒ったり笑ったりしていた。
特に意識しなくても、互いの間には、とても温かい何かが流れていて、心が
繋がっているような、そんな感覚があったのだ。
それが、かの人が消えてからというもの、彼は急にアキラを突き放したように
心を閉ざしてしまった。
彼が悲しんでいるだろうから落ち込んでいるだろうから、一緒にそれを分かち
合い、傷を癒せたらと思っていた。だが、ヒカルはそれを拒絶したように、
アキラの前では哀しみの片鱗すら見せてくれない。
前には見えていた、ヒカルの心が――見えない。
それが切なかった。
ヒカルは碁会所の門を開けると、いつも通り、裏の井戸から水を汲み上げると、
ふき掃除を始めた。
アキラはただそれを、黙って眺めていた。

ヒカルはその足で伊角の家に向かう。さすがにそこまではアキラはついてこ
なかった。
後ろに彼の気配を感じなくなったことに、ホッとして、ヒカルは伊角の家へと
向かう。
伊角はというと、あの夜以来、何事もなかったように和やかな空気がふたりの
間には流れていて、まさにあの夜、ヒカルが「酔ったせいにして、なかったこと
にしてしまおう」と思った、その通りの展開になったといっていい。
それでも、さすがに次の日、内裏に向かう為に顔を合わせた時は気まずくて、
二人して硬直したように固まってから、ぎこちなく言葉を交わして、他の随身
たちに変な顔をされたりはしたけれど。
それでも、ヒカルは不思議と伊角に体の奥を触れられた事に、自分の痴態を
見られたことに恥ずかしさはなかった。



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