落日 44 - 54
(44)
何かに顔を叩かれて彼は覚醒した。
雨は降り止んでいたが、代わりに激しい風が木々を揺する音が聞こえた。
また、何かが彼の体にぶつかった。風に煽られて折れた木々の小枝だろう。きっと、さっきも同じ
ように小枝があたって、意識を取り戻してしまったのだろう。ぴしゃりと濡れた葉が横向きに地面を
見ている彼の顔にぶつかって、彼の身体がひくりと動いた。
吹き付ける風に身を震わせながら彼はゆっくりと身体を起こした。
引き裂かれた衣が枝にひっかかり、風に煽られてなびいているのが目の端に入った。よろよろと
立ち上がり、腕を伸ばしてそれを取り、何とか原型をとどめているだけの単をかろうじて身に羽織っ
た。そしてよろめきながら、彼は足を動かした。振り向いてはいけない。振り返ってはいけない。振
り返って見たが最後、あれらが妖かしと変じて襲い掛かってくるような気がした。
あれほど激しく感じた雨でも、彼の身に纏わりつく汚れをすっかり洗い流すには足りなかった。泥
の匂いに混じって、血の匂いが生臭く彼の鼻に届いた。一歩一歩歩くたびに、下肢を伝わり落ちる
ものを感じた。汚れの上に濡れた衣を一枚羽織って、彼は陵辱の林から逃れ出ようと、必死に足
を進めた。
ぼつり、と何かが彼の背を叩き、ひっ、と小さな悲鳴を上げて、彼は思わず振り返ってしまう。それ
は続けざまにばたばたと彼の振り向いた顔を、肩を、背を叩く。ざあっと強い風が吹いて、彼のよろ
めく体は近くの樹に叩きつけられた。激しい雨が、また、降り始めてきた。もう涙も枯れ果てた汚れ
た面を上げて、彼は力弱い目で天を見上げる。けれどその目にはもはや何も映らない。月も星も
ないこの夜、ただ雨と風だけが彼にふりかかり、何かを映し出すだけの光はどこにもない。闇の中
で、叩き付ける雨が彼の顔を打ちながら、泥を流していく。ばらばらと叩き付けるような雨粒を感じ
ながら、彼はぎゅっと目を瞑り、小さく頭を振った。
そうして、彼はまた、ここから逃れようと、ゆっくりと歩き始めた。
(45)
高熱にうなされながら、彼は夢を見ていた。
熱に浮かされた歪んだ視界の向こうに、白い人影が見えたような気がした。
懐かしいその人に手を伸ばし、温かな身体に抱きついた。焚き染められた香の薫りにうっとりと
酔った。優しい手が彼の髪を撫でるのを感じた。手はそのまま彼の衣の中へ滑り込み、彼の身体
を開いていく。優しい手の、唇の、通る跡からヒカルの身体は熱く燃え上がる。ヒカルの身体の上
を這う熱く濡れた感触に、喜びにも似た期待で彼の身体はひくりと震え、背筋をざわざわと何かが
伝うように感じる。身体の中心に熱が集まってくるのを感じる。圧し掛かる身体が、抱きしめる腕が
熱く燃え上がってくるのを感じる。もっと熱く。もっと激しく。早くそれが欲しい。誰よりも熱いおまえ
自身が欲しい。生きているその証を俺に与えてくれ。
「あっ、あああーー!!」
夢の中でヒカルは、待ち望んでいた熱い楔に歓喜の声を上げていた。
「あ、やぁ…、ん…んんっ……はっ…はぁっ…ぁあ……ぁ……い、…」
夢中になって彼の名を呼んだ。呼び声に応えるように、彼が自分の名を呼ぶのがわかった。嬉し
くて、悲鳴にも近い声を上げながら彼の身体にしがみついた。声に応えて一際強く打ち付ける動き
に絶頂の予感を感じて、より深く彼を感じようと、腰を動かした。
その時。
「……?」
熱く激しく動きながらヒカルを燃え立たせていた身体は突如その動きも熱も失い、ずっしりと冷たく
重く、ヒカルの身体に圧し掛かる。
呆然と、その冷たい体の背に手を回した。
「…いやだっ……どうし…て、」
絶望に震えそうになりながら重く冷たい身体を抱きしめた。
重たい身体がしがみ付いたヒカルごと、じわじわと水底へと引き込まれていくのを感じる。
淀んだ水の匂い。湿った泥の匂い。
次第に身体の奥まで染み透っていくように感じる冷たい、冷たい水。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
誰か助けて。
誰か。
(46)
「……近衛、」
助けを求めるヒカルの声に応えるように、耳に優しい声が届く。これは誰の声だったろう。思い出
せない。けど、誰だかわからないけれど、とても優しい声。優しくて、温かくて、だから…
「おまえは俺が守ってやる。」
この声は誰だったろう。わからない。わからないけど、でもこの声が優しいから、この胸が温かい
から、温もりを求めるように、広い胸に縋りつく。けれどそうして安らぎを感じていたのは一瞬の事
で、強い力で肩を掴まれて、ヒカルは身を縮こまらせる。けれどその手は強引にヒカルの顔を上
げさせ、誰かが自分を覗き込んでいるのを感じる。これは誰だ?なぜこんな恐ろしい目で自分を
見る?やめてくれよ。怖いよ。どうして?どうしてそんな怖い目で俺を見るんだ?それまではずっ
と、ずっと、優しくて、あったかい目で「大好きだよ。」と言ってくれた目が、どうして今はそんなに
恐ろしく底光りしているんだ?
「俺を、見ろよ…っ!」
知らない人に変貌してしまった彼が強引にヒカルの肩を揺さぶる。
「やっ…」
優しく温かい胸に縋り付いていたヒカルの身体は、そこから無理矢理引き剥がされる。そのまま
腰を掴まれて引き摺られるヒカルがどんなに手を伸ばしても、もう、そこには届かない。
「あ、いや…、」
ヒカルを捕らえた腕はけれどそのまま乱暴にヒカルの下肢を割り開く。
「いや、いやだっ……いや、やあああっ!!」
(47)
暴れる四肢をものともせず強引に割り込んできた肉に、ヒカルは悲鳴を上げる。けれどそれは
むしろヒカルの抵抗を、叫び声を楽しむかのように、乱暴に動き始める。悲鳴を上げ続けるヒカル
の顔が掴まれて無理矢理口を開けさせられ、押し込まれる。前後から貫かれてヒカルはもはや
声をあげることもできない。ヒカルを後ろから突き刺していた男が突如引き剥がされたかと思うと、
別の男がすかさず彼を捕らえて貫く。嫌悪しかないはずなのに、それでも自分の身体は快感に
支配され、意思に反して肉体は与えられる刺激を貪欲に貪る。頭の奥では嫌だ、と、もうやめて
くれ、と、悲鳴を上げているのに、自分の口から漏れる声は明らかに嬌声で。
「もう、ダメ…やっ、やあっ…あ、あぁ、もう…、許して…ぇ…」
けれどどれほど泣き叫び、哀願し、懇願しても許される事は無く、それらはヒカルを身体ごと心
ごと苛む。身体の外から、内から、黒い汚濁に汚され、そこから爛れ腐って崩れてしまいそうに
感じるのに、身体は尚快楽を感じて、震え、咽び泣く。熟れ過ぎて潰れる寸前の果実の放つ香
は芳香なのか腐臭なのか。
「ああああーーーーー!!」
絶叫と共に押し潰される。体全体にかかる重みに、腐った自分自身もぐしゃりと潰され、もはや
その形状も残していないように感じた。
それなのに、意識はいまだ完全に失われはせず、ぱたり、と顔に何かが滴り落ちる。
「ひっ…」
恐怖の記憶に身体を縮こまらせた彼の顔を濡らすのは、冷たい池の水ではなく、温かく生臭い
血しぶき。背にかぶさる身体は力を失って彼を押し潰すようにくず折れるのに、まるで最期の
抵抗のように、爛れ崩れそうに感じる自分自身の内部ではまだ何かがビクビクと蠢く。
「うわぁあああああああああああああ!!!」
(48)
自らの放つ絶叫に彼は悪夢から現し世へと引き戻される。
「あ…」
思わず漏らした声は低く掠れ、もはや身を起こすだけの力もなく、ただ呆然と眼を見開いて天井を
見つめる。その木目が、ぐにゃりと歪んだ。歪んだ映像はまるでこの世に恨みつらみを持って彷徨
う怨霊のようで、ヒカルはぎゅっと目をつぶる。
けれど目の裏には誰かの顔が映ったと思うと歪んだ映像は別の人物の顔に変わり、目まぐるしく
浮んでは消えてゆくその人たちがどこの誰であったのかを認識する間もない。それは良く知って
いる人のようであり、見たことも無い人のようでもあり、一瞬、懐かしさを感じて引き止めようと思って
も次の瞬間には別の姿に移り変わる。
最後に見えた白い面に向かって手を伸ばそうとしてもそれは遅すぎて、涙を流しながら目を開けた
ヒカルの視界は夕映えに紅く染められていた。
赤く燃えるような色に誘われるように寝台から這い出し、御簾を開けて外界に出たヒカルの目に、
壮大な落日に赤く照らされた世界が映る。燃え尽き落ちる寸前の太陽の最後の力が、世界中を
呪うように毒々しく赤く、全てを血の色に染め上げていた。
何もかもが赤く照らされている光景の中で、自分が血の海に溺れかけているような気がした。
壊れてしまう、と、思った。
いっそ壊れてしまった方がいい。
好きだとか嫌いだとか、いいとか嫌だとか、そんなもの、全部要らない。考えたくない。感じたくない。
いっそ壊れきってしまえば、痛いとか苦しいとか悲しいとか辛いとか、そんなものも全部感じなくなる。
もう、壊れかけているのかもしれない。
それでいい。
己など失くしてしまえばいい。
何もかも手放して、何もかも失くして、全て忘れてしまいたい。
この赤い、血の海に溺れて、己など全て失くしてしまいたい。
もはや己をここに引き止めるものは何もない。
落日のその最後の力が次第に光を失ってゆく中、ヒカルもまた闇の世界へと沈み込んで行った。
(49)
京の都の一角に、口にする事を禁ぜられた屋敷がある。
その名は誰もが知っている。けれど問われてその名を応えるものはいない。五条の御息所と呼ばれ
るその女性は、今上帝の即位に纏わる暗い噂と共に、その存在そのものが禁忌であった。
だが禁ぜられても尚、口の端にのぼるものもある。それが噂と言うものだ。
口にする事を憚られるが故に、その噂はひたひたと冷たい水が染み透るように都に広まっていった。
禁域とも化したかの屋敷に、見目美しい童子が香に溺れていると言う。香に囚われた少年はただ人肌
の温もりを求めて、誰と言わずただそこにいる人に縋り付くのだと。ひとたび彼を抱いた者がその味が
忘れられずに再びその屋敷を訪れても、二度目の目通りを許されたものはいない、と言う者もいれば、
自分の知り合いは何度も通ったらしい、と言う者もいた。
ある者はその少年はかつて一時期宮中に見かけたこと少年だと言う。だが、どこで、誰と、と問われる
と口を噤み、そこでまたもや口にしてはならぬ名に当たる。
かつての帝の囲碁指南役、とそれさえも辺りを憚るように更に声を潜めて伝えられる。その少年はかつ
ての囲碁指南役の警護役であったと。けれどその言に、異を唱えるものもいる。その少年は追放された
人の後を追って同じく池に身を投げたのだから、その妖しの少年とは別の者であろう、と。どちらにせよ
不確かな噂の中で彼が何者であるかは誰にも確とは知れぬ。噂は噂にすぎず、それを確認する術は
ない。直接問うたところで返ってくるのは否定の返事しかない。禁ぜられたその屋敷に通うことはその
まま禁忌に触れる事であり、それは「ありえないこと」「あってはならぬこと」なのだから。
いや、問うべき相手すら明確ではない。「知り合いが人づてに聞いた所によると」と、噂はその出所さえ
曖昧に、真否を確かめることなど不可能であるのに、まるでそれが唯一の真実であるかのようにひた
ひたと流布していく。
(50)
伝わるごとに少しずつ形を変えていきながら人伝に広まりゆく噂は、真実から最も遠い所がまるで真実
であるかのように形成されることもあれば、何の根拠もなく誰の弁ともなく、けれども確かに真実に近い
形が、混沌の中から浮かび上がってくることもある。だがそれを聞く者にとってはそれがどれ程真実に
近いのか、遠いのか、確かめる術はない。知り得る者がいたとすれば当の噂の的の本人以外にはな
かったろう。だがその本人が既に禁忌である時、また、物言わぬ、己を失った者である時、真実などと
言うものはもはやどこにも存在しなくなる。
今ではその名を禁ぜられたかの囲碁指南役の最後の因縁の試合の、その真実は果たしてどこにあっ
たのか。座間方の陰謀であったとか、不正を働いたのは実は対局相手の方であったとか、いや、そも
そも彼が不正など働くはずがない、と、亡くなった人を知る者は言葉少なにそうこぼした。だがそれは
負け犬の愚痴以上のものに捉えられる事はなく、内心それに頷く者はいても、「あるべきでない」噂を
はっきりと肯定する者も、また否定する者も、いよう筈もいなかった。
だから、口にすることを憚られる存在は速やかにその存在を抹消されていく。誰もが、そして誰よりも
最高権力者たる今上帝が、その事件を葬り去ってしまいたいと、なかった事にしてしまいたいと思って
いたのだから。
そして宮中にはまた禁忌が加わる。
「藤原佐為」という名はそのまま葬り去られ、口の端に乗せることを禁ぜられる。「先の囲碁指南役」と
いう呼び方でさえ、辺りを憚りながら低い囁き声でのみ音にされる。
そうして二重の禁忌に隠された噂だけがひたひたと、見えない水のように広がっていった。
(51)
私は噂話というものは好まぬ。ましてやそれが己を遠ざけるように囁かれ、近づいたときにはぴたり
と話し止まれてしまうようなものは。初めは気にもかけなかったが、度重なれば気に障る。またもや
私の姿を見て口を噤んだ男を、耐えかねて捕まえ、問うた。「今話していた話を続けよ。」と。
「は…しかし……」
けれど彼は容易に口を割ろうとはしなかった。どうやらその話の内容によって私の不興を買う事を
恐れているようであった。馬鹿馬鹿しい。既におまえは不興を買っているというのに。
「私の前では話せぬ話があると?」
「いえ…そのような、」
「では、申せ。」
正面から睨み据えればもはや拒み続ける事などできる者はいない。
「……主上の思し召しとあれば…申し上げます。」
(52)
「五条の…?」
その者の口からその名が漏れた時、私は鬼のような形相をしていたのかも知れぬ。
常なれば口にする事を許されぬ禁忌に、事もあろうにそれを禁じた当の本人に向かって口にして
しまった事に、彼の顔がさっと蒼ざめた。けれど私は先を促し、そこで話を断つ事を許さなかった。
怯えながらも彼は続ける。
彼の話に半ば耳を傾けながら、その女を思い出していた。
美しい女だった。けれど、それ以上に恐ろしい女だった。甘くむせるような香に溺れて、ただ一度、
契りを交わした。誑かされた、という方が正しいかも知れぬ。あの香の正体が何であるかは知ら
ぬ。けれどあの香に惑わされなければ、父の女と関係を持つなど、いかな自分と言えど、ありえ
ない事だったろう。人に知られれば二人とも身の破滅であろうに、何を思って憎いはずの女の息
子に手を伸ばしたのか。
真意などわかろう筈もない。
いや、それとも、あの頃既にあの女は壊れかけていたのかも知れぬ。なぜなら私に貫かれ私に
絡みつきながら彼女が呼んだのは、私ではなく彼女の息子の名だったのだから。最愛の息子を
失って、もはや恐れるものなど何もなかったのだろうか。それとも彼の死の遠因である私を肉欲
に引きずり込むことによって、復讐を遂げようとでも思っていたのだろうか。
甘い香に幻惑されながら、じっとりと熱く甘く、うねるように己を包み込んだ肉がその時私に与え
たものは、快楽よりも恐怖に近く、それ以来、私にとって女というものは恐ろしく、またおぞましい
存在でしかない。
そのような苦い思い出に耽っていた時に、また、もう一つの名を聞いた。
五条の御方。先の囲碁指南役。そのような呼び方でさえ、それは口に乗せられる事を禁じられた
名だった。言の葉に乗せることもなく、けれど確かに私はそれを禁じた。迂闊にその名を口にした
ものの行く末から、人々はそれが禁忌である事を思い知ったのであろう。その二つは私にとって
は全く違った意味で、二度と、触れたくはない名だった。
なぜそれらの二つの名がここで結び付くのか。
彼らが口を閉ざしたがるのもわかるような気がした。
(53)
けれどそれでも私は先を促す。
「彼の警護役……?」
確たる証しは無いのですが、と彼は言う。当たり前だ。伝え聞いた噂話にそのようなものがあろう筈
がない。
だがそれが「彼」自身の事でなく、「彼」の警護役の事なのだと聞いて、私は途端に興味を失った。
そのようなつまらぬ噂話を、画策して自分から遠ざけようなどとしたのか。
彼に縁りの者がどこで何をしていようと、もはや自分には何の関わりもない。
ただ。
ふとその少年を思い出す。都人には珍しい明るい前髪の、明るい笑顔の少年であったように思う。
あのように目立つ容姿の者であれば、成る程、二つの禁忌に触れる事でも、人々の口の端にのぼり
口さがなく噂されてしまうものなのかも知れぬ。内裏でも何度か姿を見かけた少年の、その名は、何
と言ったろう。確かその名を聞いた時にはひどく合点がいったものだ。だが今、その名が何であった
かを思いだせぬ。
いや、思い出す必要もないだろう。
あの美しい囲碁指南役はもういない。
なれば、彼のかつての警護役が何だと言うのだ。
落ちぶれた家に落ちぶれた者が囲われているというのなら、それもまた似合いであろう。あの女が
見捨てられた子犬を拾っては慰み者にする事など、今に始まった事ではない。それが誰であれ、
自分が何か言い立てる必要などあるまい。
全てはなすがままに、流れのままに流れてゆくしかないのだ。
「よい。捨てておけ。」
そう言い捨てて、先に女御に取り立てた女の住まう宮へと足を運んだ。
(54)
歩きながら彼のことを思い出していた。
実際の所、自分は何も目にしなかったし、だから何の確証もない。
けれど、誰も目にしなくとも自ずと明らかになる真実というものもある。
彼を責めたて、詰り、貶めようと言葉汚く罵った者の醜い顔が蘇る。自らの内部に醜い蛇を飼う者
ほど、他人を悪し様に罵るものだ。罵り言葉など、全てその者の内にあるものでしかない。
どちらに不正があったかなど、言うまでも無い事と思ったが、だがその時自分の胸中にあったのは
別の事だった。不正がどちらにあったかなど、どうでもいい事だった。彼が不正などはたらく筈がな
い。彼を知るものなら誰もがそれを知るだろう。
己を不正を言い当てられそうになって殊更に言い立てる者を彼は非難するように見つめ、それから
何かを求めるように私を見た。その視線を受け止めた私は、けれど己の罪を他人に擦り付けんと汚
れた言葉を吐き連ねるものよりも、さらに醜い顔をしていたのかもしれない。
私を見た彼の美しい面に浮かんだものは、驚愕と、不信と、そして最後に私が見たのは絶望と諦め
の混じった、凄惨ともいえる薄い笑みだった。
どちらに正義があるかなど、どうでもいい。
助けてくれ、と言えばよい。
助けを求めれば助けてやろう。
その代わり――
私の差し出したものは彼の求めたものでなく、それゆえ最後まで彼はそれを拒み、その結果、「帝の
囲碁指南役」は失脚し、この世から消え去った。
その事を悔やみはしない。他の道があったとも思えぬから。
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