裏階段 アキラ編 45 - 46


(45)
実際にアキラが望み、オレに課した重みは想像を超えるものだった。

マンションに戻り一通り夕べの原稿に目を通して修正し編集部に送って仮眠をとった。
午後は指導碁の仕事があり、その後直接アキラが待つ碁会所に行くため部屋に残されていた
アキラの宿泊用の荷物だったバッグを持って車に乗り込む。
パジャマと着替えた服と洗面道具程度しか入っていないであろう布製の小さなブルーのバッグは軽かった。
その年頃であれば誰もがどこに行くにも持ち歩くアイテムだった携帯用ゲーム機の類を
アキラは持っていなかった。欲しがりもしないらしい。
そういう意味でもアキラは十分特殊な子供であった事は間違いない。

夕方駅前の碁会所に行くと、既にアキラが待っていて一人で棋譜並べをしていた。
アキラはこちらに気付くと嬉しそうに駆け寄って来た。
「お父さんから電話があったんです。今夜帰って来るって。それまで緒方さんと一緒にいなさいって。」
そのアキラの背後から、受付係りの年輩の女性が―当時はまだ市河嬢ではなかった―、
「もう一度、塔矢先生の方からここへ電話されるそうです。」と付け足して来た。
その端から電話が鳴った。応対したその女性から受話器を受け取り、先生から最終の新幹線で
東京に戻り、タクシーで自宅に向かうので到着は深夜近くになる旨を伝えられた。
「ええ、こちらは構いませんので。アキラくんの事は心配なさらないでください。…いえ、本当に。
アキラくんはおとなしくしていましたし…。」
電話の間アキラは寄り添うようにオレの直ぐ傍らに立っていた。


(46)
夕食は普段も時々利用する碁会所の近くの和食の小料理屋で済ませ、塔矢邸に向かった。
アキラがポケットから鍵を取り出すより先にオレが持つ合鍵で玄関の戸を開けた。
この家を出た時に返そうとしたが、先生に「何かあった時のために」と
持たされたままになっていたものだった。
ジャケットを脱いで居間に置き、とりあえず浴室に行って浴槽を洗い流し、湯を張る。
オレが居た頃からさして物の置き場所や仕様が変わっていないので夫人が居なくても
不都合なく家の事が出来た。
さすがに疲れが溜って来ていたので目を覚まそうと台所でコーヒー用に湯を湧かしていると、
部屋着に着替えたアキラが廊下から顔を覗かせた。
「緒方さんはどこで寝るんですか?ボクがお布団敷きます。」
どうやらアキラはもうオレが泊まるものと決め込んでいるらしい。
「…オレの事はいいから、アキラくんはお風呂に入りなさい。」
「…はい。」
アキラは素直に浴室の方に向かおうとした。
その時、ふと思うところがあって彼を呼び止めた。
「アキラくん、…オレも一緒に入っていいかい?」
「ウン!?いいよ!」
アキラはすぐに明るい笑顔でそう返事をした。それを見て安心出来た。
「いや、いいんだ。やっぱりアキラくん一人で入りなさい。」
「…えー…?」
訳が分からないといった様子で少し唇を尖らせてアキラは廊下の向こうへ歩いていった。



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