黎明 45 - 46


(45)
「俺、もう、大丈夫だから。」
静かな声で、真っ直ぐにアキラを見つめて、ヒカルはそう言った。
その静謐な目の光を見て、アキラはゆっくりとまばたきをした。
近いうちにこの日が来る事を、アキラは知っていた。
意を決したアキラはすいと立ち上がり、戸を開けて、ついてくるように、と、ヒカルを促した。立ち
上がろうとしたヒカルがよろめく。手を貸してやりたい思いを飲み込んで、彼が彼の足で立ち上
がり、歩き出すのを待つ。
萎えた足で踏みしめるように歩くヒカルを背後に感じながら、アキラはゆっくりと廊下を歩いた。

ある部屋の戸を開け、ヒカルがアキラの後をついてその部屋に入ると、アキラは静かに戸を閉
めた。そして部屋の隅に置かれていた香炉を手に取り、それを捧げるように持ちながら振り返っ
てヒカルを見た。
アキラの手の中の香炉を見てヒカルの視線が揺れた。香のもたらす甘い夢をヒカルは思い、
一瞬、その夢を追うように目を閉じ、けれどすぐにそれを振り切って目を見開き、また真っ直ぐに
アキラを見据えた。
アキラはそんなヒカルを鋭い目で見つめながら香炉に火を点けた。ヒカルは微かに眉根を寄せ、
けれど平静を保とうとこらえながら、それを見ていた。
甘い香りが部屋に漂う。ヒカルの身体が瘧のように震えた。震えながらも視線は香炉から離せ
ないようだった。アキラはヒカルのその様子を冷静に観察しながら手の中の香炉をかざし、甘い
香を吸い込んだ。
アキラの頭がその甘さにくらりと痺れた。
自分こそが、この甘い香りの与える夢に逃げ込んでしまいたい。そしてヒカルと二人で甘い夢の
中に漂っていたい。つらい事など全て忘れて。今はもういないひとの事も、決して振り向いてはく
れない、いつまでもいない人を想うつれない心のことも、なにもかも全て忘れて。今なら、まだ間
に合うのかもしれない。身体だけでも、いや、上手に操れば彼の心も、自分のものにできたの
かもしれない。香の見せるそんな幻惑が一瞬アキラを襲い、その歪んだ夢を映したようにアキラ
の顔が歪んだ。


(46)
あの香りがどれ程甘やかな夢を見せるか知っている。
心はそれを拒絶しなければならないと思っていても、一度溺れた事のある身体は、あの夢を欲し
てやまない。
全身から脂汗が滲み出そうだった。
歯を食いしばって、ヒカルは香を求める己自身と戦った。
香炉を手に自分を誘う彼は、自分の知っている彼とは全くの別人のように見えた。
これも香の見せる魔なのだろうか。常ならば鋭い抜き身の刃のように斬り付ける眼差しが、今は
濡れて妖しく光り、それは底も見えぬほどの暗い闇の淵のようだ。
黒い瞳がヒカルを誘う。共に闇の中へ堕ちよと。
ヒカルはその闇を、彼を、端麗な冴えた月を、全てを飲み込む深い底なし沼に変えてしまった香
の魔を、心底憎んだ。違う、と心の中で叫んだ。こんなのは彼じゃない。
では彼でなければでは、何だ?
それは。
それは、自分だ。
淫りがましく浅ましく、ただ人肌のみを求めた、闇の底にいた時の己の姿だ。清冽な眼差しが恐ろ
しくて、清浄な彼が妬ましくて、淫猥な身体を擦り付けて彼の内の熱を煽った、あれは自分自身の
姿だ。
そしてヒカルは自分が既に香の魔に囚われてしまっていて、今、己の目に映る彼は真実の彼で
はなく、自らの望むように変貌させた彼なのだと悟る。彼の中に存在しないはずの魔を、自らの闇
を、彼に投影させてしまった自分の心弱さを、そうやって彼を汚した己の闇を、ヒカルは呪った。
憎しみを込めて彼を睨む。
視線にこめられた呪に、眼前の魔物が、怯んだように顔を歪ませた。



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