黎明 7章
(45)
「俺、もう、大丈夫だから。」
静かな声で、真っ直ぐにアキラを見つめて、ヒカルはそう言った。
その静謐な目の光を見て、アキラはゆっくりとまばたきをした。
近いうちにこの日が来る事を、アキラは知っていた。
意を決したアキラはすいと立ち上がり、戸を開けて、ついてくるように、と、ヒカルを促した。立ち
上がろうとしたヒカルがよろめく。手を貸してやりたい思いを飲み込んで、彼が彼の足で立ち上
がり、歩き出すのを待つ。
萎えた足で踏みしめるように歩くヒカルを背後に感じながら、アキラはゆっくりと廊下を歩いた。
ある部屋の戸を開け、ヒカルがアキラの後をついてその部屋に入ると、アキラは静かに戸を閉
めた。そして部屋の隅に置かれていた香炉を手に取り、それを捧げるように持ちながら振り返っ
てヒカルを見た。
アキラの手の中の香炉を見てヒカルの視線が揺れた。香のもたらす甘い夢をヒカルは思い、
一瞬、その夢を追うように目を閉じ、けれどすぐにそれを振り切って目を見開き、また真っ直ぐに
アキラを見据えた。
アキラはそんなヒカルを鋭い目で見つめながら香炉に火を点けた。ヒカルは微かに眉根を寄せ、
けれど平静を保とうとこらえながら、それを見ていた。
甘い香りが部屋に漂う。ヒカルの身体が瘧のように震えた。震えながらも視線は香炉から離せ
ないようだった。アキラはヒカルのその様子を冷静に観察しながら手の中の香炉をかざし、甘い
香を吸い込んだ。
アキラの頭がその甘さにくらりと痺れた。
自分こそが、この甘い香りの与える夢に逃げ込んでしまいたい。そしてヒカルと二人で甘い夢の
中に漂っていたい。つらい事など全て忘れて。今はもういないひとの事も、決して振り向いてはく
れない、いつまでもいない人を想うつれない心のことも、なにもかも全て忘れて。今なら、まだ間
に合うのかもしれない。身体だけでも、いや、上手に操れば彼の心も、自分のものにできたの
かもしれない。香の見せるそんな幻惑が一瞬アキラを襲い、その歪んだ夢を映したようにアキラ
の顔が歪んだ。
(46)
あの香りがどれ程甘やかな夢を見せるか知っている。
心はそれを拒絶しなければならないと思っていても、一度溺れた事のある身体は、あの夢を欲し
てやまない。
全身から脂汗が滲み出そうだった。
歯を食いしばって、ヒカルは香を求める己自身と戦った。
香炉を手に自分を誘う彼は、自分の知っている彼とは全くの別人のように見えた。
これも香の見せる魔なのだろうか。常ならば鋭い抜き身の刃のように斬り付ける眼差しが、今は
濡れて妖しく光り、それは底も見えぬほどの暗い闇の淵のようだ。
黒い瞳がヒカルを誘う。共に闇の中へ堕ちよと。
ヒカルはその闇を、彼を、端麗な冴えた月を、全てを飲み込む深い底なし沼に変えてしまった香
の魔を、心底憎んだ。違う、と心の中で叫んだ。こんなのは彼じゃない。
では彼でなければでは、何だ?
それは。
それは、自分だ。
淫りがましく浅ましく、ただ人肌のみを求めた、闇の底にいた時の己の姿だ。清冽な眼差しが恐ろ
しくて、清浄な彼が妬ましくて、淫猥な身体を擦り付けて彼の内の熱を煽った、あれは自分自身の
姿だ。
そしてヒカルは自分が既に香の魔に囚われてしまっていて、今、己の目に映る彼は真実の彼で
はなく、自らの望むように変貌させた彼なのだと悟る。彼の中に存在しないはずの魔を、自らの闇
を、彼に投影させてしまった自分の心弱さを、そうやって彼を汚した己の闇を、ヒカルは呪った。
憎しみを込めて彼を睨む。
視線にこめられた呪に、眼前の魔物が、怯んだように顔を歪ませた。
(47)
甘い香にうっとりと酔うアキラの顔を、ヒカルが睨みつけるように真っ直ぐに見据えていた。ヒカル
の眼差しがアキラの幻を切り裂き、彼の目の光にあって、アキラは逃げ出しそうになった己の弱
さを呪った。
なにもかもを、台無しにするところだった。最後の最後で、弱さを、脆さを、露呈してしまったことを
アキラは呪い、それをヒカルに気取られたかもしれないと思うと、猛烈に己を恥じた。けれどその
弱さを押し隠して、香炉をヒカルに差し出した。
闇のように深く黒い瞳が妖しくヒカルをいざなう。
けれどヒカルは香炉を睨みつけながら、ゆっくりと首を振った。
アキラはヒカルのその様子を見ながら、もう一服、その香りを胸に吸い込んだ。
深く吸い込みすぎて、頭の芯がぐらぐらと揺れるのを感じた。あと一服、吸い込んでしまえば、自
分もまた、この甘い香りの闇に堕ちるかも知れない。堕ちることを恐れながらも、心のどこかで堕
ちてしまいたいと感じている自分がいる事を、アキラは自覚していた。
香に痺れたこの身体がくず折れそうになれば、彼の手が己の身体を抱きとめてはくれまいかと、
そんな浅ましい考えがちらりと彼の頭の隅をかすめた。それは全てを捨て去り全てを失っても惜
しくは無いと思わせるほど、甘美な毒を含んだ夢だった。
けれど彼は闇に堕ちることもなく、香の魔に囚われる事もなく、ひとたび瞼を閉じ、そしてゆっくり
と開いた時には、その瞳からは先程の妖しさは消え、いつものように鋭い光を放っていた。
そして眼前の少年が先程と変わらず、彼と同じくらい真っ直ぐな眼差しで彼を見つめているのが
わかると、彼の眼は和らぎ、口元に穏やかな笑みをやっと浮かべた。
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すいと横を向いてアキラが合図すると、いつの間にかそこに控えていた童が音もなく立ち上がり、
御簾を上げ戸を開けて、冷たい外気を室内に呼び込んだ。
甘い香りは冷たい空気に吹き払われ、幻はあっという間に消え去った。
香りが完全に消え去るまでの僅かな間、アキラは消えていった幻を惜しんだ。
けれど次の瞬間、大切な友人を取り戻した事を思い出し、彼に向かってもう一度、微笑みかけた。
「よかった、ヒカル…もう、大丈夫だ。」
アキラのその声に、ヒカルは少し照れたような、はにかんだような、そして少しだけ誇らしげな、
けれどほっとしたような笑みを返した。
ヒカルは立ち上がってアキラに近づき、その手をとった。
「ありがとう、アキラ。」
アキラは差し出されたヒカルの手を握り返した。
「心配をかけて、悪かった。俺、もう、大丈夫だから。」
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら、両手で彼の手を強く握り締めた。
ようやく取り戻した友の手の上に、アキラの熱い涙が一粒、落ちた。
涙は一粒では止まらず、ぱたぱたと音を立ててヒカルの手の上に落ちた。
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ヒカルは手の上に落ちる熱い涙を感じていた。
この高貴な魂を持った友が、どれ程の苦労を持ってここまで自分を導いてくれたか、そしてどれ
程自分の身を案じていたか、どれ程、自分の快復を願ってくれていたか、ヒカルは今更のように
思い知らされて、ヒカルの目にも涙が浮かんできた。
「ありがとう、アキラ。」
嗚咽をこらえて震える声で、もう一度、彼の名を呼び、彼の心に応えようとした。
アキラが顔を上げてヒカルを見た。ヒカルは優しくアキラに微笑みかけていた。最後にヒカルの
こんな微笑みを見たのは、いったい、どれ程前のことだったのだろう。ついに取り戻したヒカル
の笑みを前に、アキラは声を詰まらせた。
「あ…、あ」
そしてまたアキラの瞳に涙が溢れ、涙でヒカルの微笑みがぼやけた。
「……ヒカル…!…ヒカル、ヒカル、ヒカル、」
アキラはヒカルの身体を抱きしめ、彼の名を呼びながら声を上げて泣いた。
ヒカルの手が、呼びかけに応えるように、優しくアキラの背を叩いた。
(50)
「…済まなかった、みっともない所を見せて、」
「何を言っているんだ。みっともないのは俺のほうだろう?」
「そんな事はない。」
アキラはこぼれた涙を袖で拭って小さく首をふり、それからやっとヒカルを見上げた。
「…おまえの、おかげだ。ありがとう、アキラ。」
「僕の力など、いかほどのものもない。君が立ち直ったのは君自身の力だ。」
柔らかく微笑みかける眼差しに、ふと怯えたように、ヒカルは俯く。
「おまえ…俺を、軽蔑したり、しなかったのか…?」
「なぜ…?」
「あんな風に…逃げて、馬鹿な奴だって、俺を軽蔑しなかったのか…?」
「軽蔑なんか、する筈がない。」
そう言って、アキラは悲しみさえ感じさせる程に、優しく、微笑みかけた。
「確かに君のとった道は愚かだったかもしれない。だが程度の差こそあれ、ひとは皆愚かな
ものだ。愚かさにかけては君も僕も同じようなものだよ。ただそのあらわれ方が違うだけだ。
そして恋は最も人を愚かにするものだ。」
何か不思議な事でも聞いたように、ヒカルは瞬きしてアキラを見た。
「……おまえが…言うのか?そんな事を…?」
「そうだよ。僕だって、自分の愚かさに嘲うしかないような事だっていくらでもあるさ。」
「そうじゃなくて、…恋って、おまえがそんな事を言うなんて……
もしかしておまえ、誰か想う人がいるのか?」
問われてアキラは僅かに目を瞠ってヒカルを見返した。それから彼はゆっくりと視線を落とし、
小さく首を振った。
「…いるさ、僕にだって。想う人は。」
そして視線を彷徨わせ、どこか遠くを見ているような眼差しで、アキラは言う。
「けれど想う人に想われる喜びを、僕は知らない。
だから想い想われた人に置いてゆかれる悲しみも、僕は知らない。
僕は何も知らないから、君の痛みも苦しみも分からなくて、僕は君の哀しみに寄り添うことさえ
できない。僕の悲しみといったら、そんな自分の不甲斐なさを悲しく思う事くらいだ。」
「そんな事はない。」
「あるんだよ。」
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「なぜ…そんな寂しいことを言うんだ…?」
「僕の想う人は、他の人を見ているから。」
そう言ってアキラは小さく微笑った。その寂しげな微笑みに、ヒカルは胸が痛むのを感じた。
「だから、こんな事を言うと君は怒るかもしれないが、むしろ、あれほど苦しみ悩むことの出来る
君をほんの少しだけ羨ましいと、僕は思ったよ。」
応えることができずに、ヒカルは小さく首を振った。
「僕の想う人は僕の想いを知らない。知らないまま他のひとを見ている。
けれど例えその人が僕を見なくても、けして僕を愛さないと知っていても、僕はその人が生きて
いてくれるだけで幸せなのだと、僕は思う。僕は……」
アキラは言葉を詰まらせた。
「…それだけでいい。その人がその人らしくこの世にいてくれれば…」
君が君らしく生きていてくれればそれだけで僕は幸せだ。
なのに、一番大切な人を亡くしてしまった君の前で「生きていてくれれば」なんて口にしてしまう
なんて、それがどんなに君を傷つけるか口に出すまで気付かないなんて、こんな僕が君を望む
なんて、こんな強欲は、それこそ秩序を超えようとするような罪悪だ。
「すまない…君の前でこんな事を言うなんて。それでも…」
何かをこらえようとアキラの身体が震えるのを見て、ヒカルはその身体を抱きしめてやりたいと
思った。自分を闇の淵から救い出してくれた、この凛とした、何にも負けない強い眼差しを持った
年若い陰陽師が、こんな風に見ていて切ないほどの哀しみに身を震わせるのを、初めて見た。
そして、彼をこんな風に哀しませるのは一体どこの誰なのだろうと、思った。
彼にこんな風に想われて想いを返さずにいられるなんて、気付かずにいられるなんて、よっぽ
ど鈍感な馬鹿者だ。その人は他の誰かを見ているのだと彼は言っていたが、彼以上の者なん
てそうそういはしないだろうに。
そんな事を考えてしまうのは心のどこかでその誰かを妬ましく思っている自分がいるからだと
いう事に、ヒカルは気付かないふりをした。それは誰だと、問いたい気持ちは口には出さず、
ただ、彼の想いがその相手に届くことがあればいいのに、と思うだけで、その誰かを羨ましい
と思う気持ちに蓋をした。
(52)
ヒカルは縁側に座り、冬枯れの庭を見るともなく見ていた。
一陣の風が吹き通り、その風の冷たさにヒカルは身を震わせた。
そしてふいにアキラに抱きしめられた時の、彼の腕の力強さと、彼の身体の熱さを思い出した。
それから、彼が想い人を語った時の、眼差しの奥の秘められた熱情と、深い悲哀を思った。
その熱いまなざしが、誰か、自分の知らない人に向けられたものなのだという事が、なぜだか
わからないけれど、とてつもなく、寂しかった。
ヒカルの目に涙が浮かび、一筋、頬を伝って流れた。
その涙が、アキラの悲哀が自分にも伝わったためなのか、それとも何か他の涙なのか、ヒカル
にはわからなかった。けれど佐為を失った悲しみではないことだけは確かで、自分にそれ以外
の涙が残っていたのが、何か不思議だった。
いや、それは残っていたものではなく、新たに生まれたものなのかもしれない。そう思って更に、
自分の中に新たに生み出されるものがあった事にヒカルは驚いた。
佐為を失って、自分は何もかも失くしてしまったように思っていた。
だがそれはもしかしたら間違いっていたのかもしれないと、この時初めて思った。
庭に降り立ち天を仰ぐと、天空は晴れわたり、月のない夜空にはけれど星がきらめいていた。
「佐為…」
天を仰いで星を見上げ、ヒカルは逝ってしまった人の名を呟いた。
愛した人に愛された記憶を持つ自分は、確かに幸せだったのかもしれないと思いながら。
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