落日 46 - 49


(46)
「……近衛、」
助けを求めるヒカルの声に応えるように、耳に優しい声が届く。これは誰の声だったろう。思い出
せない。けど、誰だかわからないけれど、とても優しい声。優しくて、温かくて、だから…
「おまえは俺が守ってやる。」
この声は誰だったろう。わからない。わからないけど、でもこの声が優しいから、この胸が温かい
から、温もりを求めるように、広い胸に縋りつく。けれどそうして安らぎを感じていたのは一瞬の事
で、強い力で肩を掴まれて、ヒカルは身を縮こまらせる。けれどその手は強引にヒカルの顔を上
げさせ、誰かが自分を覗き込んでいるのを感じる。これは誰だ?なぜこんな恐ろしい目で自分を
見る?やめてくれよ。怖いよ。どうして?どうしてそんな怖い目で俺を見るんだ?それまではずっ
と、ずっと、優しくて、あったかい目で「大好きだよ。」と言ってくれた目が、どうして今はそんなに
恐ろしく底光りしているんだ?
「俺を、見ろよ…っ!」
知らない人に変貌してしまった彼が強引にヒカルの肩を揺さぶる。
「やっ…」
優しく温かい胸に縋り付いていたヒカルの身体は、そこから無理矢理引き剥がされる。そのまま
腰を掴まれて引き摺られるヒカルがどんなに手を伸ばしても、もう、そこには届かない。
「あ、いや…、」
ヒカルを捕らえた腕はけれどそのまま乱暴にヒカルの下肢を割り開く。
「いや、いやだっ……いや、やあああっ!!」


(47)
暴れる四肢をものともせず強引に割り込んできた肉に、ヒカルは悲鳴を上げる。けれどそれは
むしろヒカルの抵抗を、叫び声を楽しむかのように、乱暴に動き始める。悲鳴を上げ続けるヒカル
の顔が掴まれて無理矢理口を開けさせられ、押し込まれる。前後から貫かれてヒカルはもはや
声をあげることもできない。ヒカルを後ろから突き刺していた男が突如引き剥がされたかと思うと、
別の男がすかさず彼を捕らえて貫く。嫌悪しかないはずなのに、それでも自分の身体は快感に
支配され、意思に反して肉体は与えられる刺激を貪欲に貪る。頭の奥では嫌だ、と、もうやめて
くれ、と、悲鳴を上げているのに、自分の口から漏れる声は明らかに嬌声で。
「もう、ダメ…やっ、やあっ…あ、あぁ、もう…、許して…ぇ…」
けれどどれほど泣き叫び、哀願し、懇願しても許される事は無く、それらはヒカルを身体ごと心
ごと苛む。身体の外から、内から、黒い汚濁に汚され、そこから爛れ腐って崩れてしまいそうに
感じるのに、身体は尚快楽を感じて、震え、咽び泣く。熟れ過ぎて潰れる寸前の果実の放つ香
は芳香なのか腐臭なのか。
「ああああーーーーー!!」
絶叫と共に押し潰される。体全体にかかる重みに、腐った自分自身もぐしゃりと潰され、もはや
その形状も残していないように感じた。
それなのに、意識はいまだ完全に失われはせず、ぱたり、と顔に何かが滴り落ちる。
「ひっ…」
恐怖の記憶に身体を縮こまらせた彼の顔を濡らすのは、冷たい池の水ではなく、温かく生臭い
血しぶき。背にかぶさる身体は力を失って彼を押し潰すようにくず折れるのに、まるで最期の
抵抗のように、爛れ崩れそうに感じる自分自身の内部ではまだ何かがビクビクと蠢く。
「うわぁあああああああああああああ!!!」


(48)
自らの放つ絶叫に彼は悪夢から現し世へと引き戻される。
「あ…」
思わず漏らした声は低く掠れ、もはや身を起こすだけの力もなく、ただ呆然と眼を見開いて天井を
見つめる。その木目が、ぐにゃりと歪んだ。歪んだ映像はまるでこの世に恨みつらみを持って彷徨
う怨霊のようで、ヒカルはぎゅっと目をつぶる。
けれど目の裏には誰かの顔が映ったと思うと歪んだ映像は別の人物の顔に変わり、目まぐるしく
浮んでは消えてゆくその人たちがどこの誰であったのかを認識する間もない。それは良く知って
いる人のようであり、見たことも無い人のようでもあり、一瞬、懐かしさを感じて引き止めようと思って
も次の瞬間には別の姿に移り変わる。
最後に見えた白い面に向かって手を伸ばそうとしてもそれは遅すぎて、涙を流しながら目を開けた
ヒカルの視界は夕映えに紅く染められていた。

赤く燃えるような色に誘われるように寝台から這い出し、御簾を開けて外界に出たヒカルの目に、
壮大な落日に赤く照らされた世界が映る。燃え尽き落ちる寸前の太陽の最後の力が、世界中を
呪うように毒々しく赤く、全てを血の色に染め上げていた。
何もかもが赤く照らされている光景の中で、自分が血の海に溺れかけているような気がした。
壊れてしまう、と、思った。
いっそ壊れてしまった方がいい。
好きだとか嫌いだとか、いいとか嫌だとか、そんなもの、全部要らない。考えたくない。感じたくない。
いっそ壊れきってしまえば、痛いとか苦しいとか悲しいとか辛いとか、そんなものも全部感じなくなる。
もう、壊れかけているのかもしれない。
それでいい。
己など失くしてしまえばいい。
何もかも手放して、何もかも失くして、全て忘れてしまいたい。
この赤い、血の海に溺れて、己など全て失くしてしまいたい。
もはや己をここに引き止めるものは何もない。
落日のその最後の力が次第に光を失ってゆく中、ヒカルもまた闇の世界へと沈み込んで行った。


(49)
京の都の一角に、口にする事を禁ぜられた屋敷がある。
その名は誰もが知っている。けれど問われてその名を応えるものはいない。五条の御息所と呼ばれ
るその女性は、今上帝の即位に纏わる暗い噂と共に、その存在そのものが禁忌であった。
だが禁ぜられても尚、口の端にのぼるものもある。それが噂と言うものだ。
口にする事を憚られるが故に、その噂はひたひたと冷たい水が染み透るように都に広まっていった。

禁域とも化したかの屋敷に、見目美しい童子が香に溺れていると言う。香に囚われた少年はただ人肌
の温もりを求めて、誰と言わずただそこにいる人に縋り付くのだと。ひとたび彼を抱いた者がその味が
忘れられずに再びその屋敷を訪れても、二度目の目通りを許されたものはいない、と言う者もいれば、
自分の知り合いは何度も通ったらしい、と言う者もいた。
ある者はその少年はかつて一時期宮中に見かけたこと少年だと言う。だが、どこで、誰と、と問われる
と口を噤み、そこでまたもや口にしてはならぬ名に当たる。
かつての帝の囲碁指南役、とそれさえも辺りを憚るように更に声を潜めて伝えられる。その少年はかつ
ての囲碁指南役の警護役であったと。けれどその言に、異を唱えるものもいる。その少年は追放された
人の後を追って同じく池に身を投げたのだから、その妖しの少年とは別の者であろう、と。どちらにせよ
不確かな噂の中で彼が何者であるかは誰にも確とは知れぬ。噂は噂にすぎず、それを確認する術は
ない。直接問うたところで返ってくるのは否定の返事しかない。禁ぜられたその屋敷に通うことはその
まま禁忌に触れる事であり、それは「ありえないこと」「あってはならぬこと」なのだから。
いや、問うべき相手すら明確ではない。「知り合いが人づてに聞いた所によると」と、噂はその出所さえ
曖昧に、真否を確かめることなど不可能であるのに、まるでそれが唯一の真実であるかのようにひた
ひたと流布していく。



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