無題 第2部 46 - 50
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「塔矢、起きてる…?」
「ウン…」
「さっき…ゴメンな…オレ、おまえと打ちたくなかったわけじゃないんだ。
たださ…あれは…特別なんだ。
もうちょっと、もっと時間がたてば…いつか…オレ…」
薄闇の中で、アキラはぼんやりと考えた。
特別、と言うのはあの碁盤の事なのだろうか。
「もっと時間が経てば…いつか…」
その言葉が、どこか心に引っかかった。どこかで聞いた事のある言葉…どこでだったろう…
「…進藤…?」
そっと彼の名を呼んでみたが、返ってくるのは穏やかな寝息ばかりだった。
―なんでだろう…大事な事だったような気がするんだ…だけど…
心の底に疑問を残したまま、しかし、いつしかアキラも眠りについていた。
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いつもは起こされないと起きられない事が多いのに、今朝に限って随分と早く目が覚めてしまった。
「何だ、まだこんな時間かぁ…」
朝日の射し込んでいる部屋で、ヒカルは小さくあくびをした。
「なんでこんな早く目ェ覚めちゃったんだろ?」
―コイツのせい、かな?
そんなヒカルの思惑など気付くはずもなく、アキラはスヤスヤと寝息をたてている。
寝ているアキラを起こさないようにそっとベッドから抜け出し、しゃがみこんでアキラの寝顔を眺めた。
―へぇ…コイツって、キレイな顔してるんだな…
カーテン越しの淡い光がアキラの顔の上でゆらゆらと揺らめいている。
ヒカルは、完璧とも言っていいその造形にしばし、見惚れていた。
―でも、寝てるといつもよりはちょっと子供っぽいカンジだな。
少しイタズラ心を起こして、つん、と頬をつついてみた。
「ん…」
小さな声を漏らし、若干、横を向いていたアキラの顔がヒカルの方を向いた。
ドキッとした。僅かに半開きになった、形の良い薄紅色の唇から、目が離せない。
つややかなその唇が、まるでヒカルを誘うように、かすかに動いた。
ドキドキと心臓が激しく脈打っている。ヒカルにはまるでその音が部屋全体に響いているように感じ、
寝ているアキラにも聞こえてしまうのではないかと心配になった。
しかも、それだけでは済まず、その脈動が股間にも伝わっていくのを、ヒカルは感じた。
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―ヤベェよ、オレ…なに男の寝顔にドキドキしてんだよ…
マズい、この顔から目を離さなければ、と思いながらも、目が離せない。それどころか、その唇に
触れたくてたまらない。
―ちょっとだけ、ちょっとだけなら、わからないよな?大丈夫だよな…?
ヒカルの手がそうっとアキラに伸ばされようとしたその時、まるでそれを察したかのように、ゆっくり
とアキラの目が開いた。
それはまるで朝の光を浴びて白い花が開いたかのようだった。
ぼんやりとしたその目がヒカルを認めてか、アキラの顔がほころんだ。
突然微笑みかけられて、ヒカルは真っ赤になった。
が、そんなヒカルに気付きもせず、アキラは軽く目をこすった。
「…ん…」
まだ目が覚めきらないアキラはぼんやりとあたりを見回し、ヒカルを認めて、また、軽く微笑んだ。
「あ…進藤、おはよう…」
「お、おはよ、塔矢、えと、まだちょっと早いみたいだけど、オレ、起こしちゃったかな、ゴメン…」
しどろもどろになって、ヒカルは応えた。
顔が熱くなって、きっと耳まで赤くなっているのだろうと、ヒカルは思った。しかも熱いのは顔だけ
ではなかった。身体の中心でドクンドクンと脈打っているものがある。だがこれをアキラに悟られる
わけにはいかない。
「ゴメン、オレ、ちょっとトイレ行ってくるわ…。」
前かがみになって、そそくさとヒカルは出て行った。
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「ヒカル、駅まで送ってってあげなさいね。」
母親にそう言われて、ヒカルはまだ人通りの少ない道を、アキラと肩を並べて歩いた。
今日は良い天気になりそうだ、と、空を見上げて、ヒカルは思った。
それから、ちらっと横のアキラを見上げた。
冷たい朝の風がアキラの髪をなびかせる。アキラは白い手をあげてその髪を押さえた。
アキラには首筋をぬける風の冷たさも心地良いようで、口元が軽くほころんでいる。
すっと伸びた背筋。バランスの取れた体つき。整った美しい顔。
絹糸のような真っ直ぐの黒髪を、風がサラサラと撫ぜていく。
気付いたら、ヒカルは立ち止まってアキラに見惚れていた。
アキラがそれに気付いて、振り向いて、言った。
「…どうしたの?」
「いや、おまえってキレイだなー、と思って。」
素直にそう答えたヒカルに、アキラは赤面した。
「なっ…なに言ってんだよ、いきなり…?」
「なんだよ、キレイだなんて、言われ慣れてるんじゃねーか?」
「そんなの、言われ慣れてなんか、いないよっ…!」
ムキになってそう答えるアキラの反応がなんだか可笑しくて、ヒカルはクスクス笑いながら言った。
「キレイだと思ったからそう言っただけじゃん?でも…、そうやって照れてるおまえって…カワイイぜ?」
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「かっ…カワイイ…!?」
綺麗、と言われた次には可愛いと言われて、アキラはますます赤くなった。
自分でも頬が赤くなっているのがわかる。意識すると余計熱いような気がした。
駄目だ、静まれ、と自分に言い聞かせているアキラをヒカルは楽しそうに見ながら、ふと手を
伸ばして耳をちょん、とつまんだ。
「耳まで真っ赤だぜ?」
「進藤…っ、ふざけるなっ!!」
ヒカルの手を振り払おうとしたアキラをかわしてヒカルは笑った。
「ハハハッ」
触れた耳が思いの他熱くて柔らかくて、ヒカルにはその熱が自分にも移ってきてしまう気がして、
高まっていく胸の動悸を誤魔化すように走り出した。
「待てよっ…進藤…!」
走るヒカルの後をアキラが追う。
追いかけてきてくれるのが嬉しくて、追いつかれないようにスピードを上げた。
走り出すと地下鉄の駅はすぐだった。
「いっちゃあーく!」
そう叫んで入口の壁にタッチし、軽く息を切らしながらそこにしゃがみ込んだ。
それから、小さい声でヒカルは呟いた。
「ちぇ、もう着いちゃったか。」
走ってきたんだから当たり前なんだけど。
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