裏階段 アキラ編 46 - 50
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夕食は普段も時々利用する碁会所の近くの和食の小料理屋で済ませ、塔矢邸に向かった。
アキラがポケットから鍵を取り出すより先にオレが持つ合鍵で玄関の戸を開けた。
この家を出た時に返そうとしたが、先生に「何かあった時のために」と
持たされたままになっていたものだった。
ジャケットを脱いで居間に置き、とりあえず浴室に行って浴槽を洗い流し、湯を張る。
オレが居た頃からさして物の置き場所や仕様が変わっていないので夫人が居なくても
不都合なく家の事が出来た。
さすがに疲れが溜って来ていたので目を覚まそうと台所でコーヒー用に湯を湧かしていると、
部屋着に着替えたアキラが廊下から顔を覗かせた。
「緒方さんはどこで寝るんですか?ボクがお布団敷きます。」
どうやらアキラはもうオレが泊まるものと決め込んでいるらしい。
「…オレの事はいいから、アキラくんはお風呂に入りなさい。」
「…はい。」
アキラは素直に浴室の方に向かおうとした。
その時、ふと思うところがあって彼を呼び止めた。
「アキラくん、…オレも一緒に入っていいかい?」
「ウン!?いいよ!」
アキラはすぐに明るい笑顔でそう返事をした。それを見て安心出来た。
「いや、いいんだ。やっぱりアキラくん一人で入りなさい。」
「…えー…?」
訳が分からないといった様子で少し唇を尖らせてアキラは廊下の向こうへ歩いていった。
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かつて学校の担任との出来事のような、人に体を見せるのを嫌がるような事態は
彼の身に起こっている訳ではなさそうだった。
眼鏡を外して座卓に置き、熱いコーヒーで一息ついて畳の上に寝転がった。
アキラの事を少し気にし過ぎているのかもしれない。
そうしてどれくらい時間が経ったのか、気がついてみると自分の体の上に
毛布が掛けられていた。やけに温かく、毛布の中を見てみると思った通り
アキラがパジャマ姿ですぐ横で体を丸めて眠っていた。
時計を見ると11時を過ぎたところだった。しまったと思い、
慌ててアキラを揺り起こした。
「ダメだよ、アキラくん。風邪をひく。」
「んー…、」
ボーッとしているアキラをトイレに行かせ、毛布を持ってアキラの
部屋に入ると押し入れから敷き布団を引っ張り出したままの状態になっていた。
そのアキラの寝床を整えているとアキラが戻って来た。
「…緒方さんも一緒にここで寝ようよオ…。」
眠気半分のせいか多少不機嫌そうに、珍しく幼い子供の口調になっていた。
「わかったから戸を閉めて布団に入りなさい。」
アキラが布団の中に潜り込むと、掛け布団の上にアキラの隣に横になった。
「毛布を掛けてくれたんだね。ありがとう。」
そう言って布団の上からアキラの体をポンポンと叩いてやるとアキラは
嬉しそうに笑んでこちらを見つめていた。
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若干眠気が引いてしまったのか、アキラの黒目がちな丸い瞳がキラキラ光っている。
この状況だと昔話のひとつもせがまれそうで焦った。
それくらいなら碁の相手をする方がまだましである。
「…オレの事がそんなに好きか?」
間がもたなくてついくだらない事を聞いてしまった。まだ頭の芯が寝ていたらしい。
アキラは布団で顔の下半分を隠してこくりと頷いた。
「…どこがいいんだ?」
ついでだと半ばやけくそになっていた。横になって再び眠気が襲ってきていた。
「…目が好き。」
「目?」
「緒方さんの目、光が当たるとすごくキレイ。ライオンみたいな金色になって
カッコイイから…」
「…オレはアキラくんの目の方がカッコイイと思うよ…。」
「…ボクの目?」
布団から顔を出したアキラの頬にかかった黒髪を指ではらってやると、
アキラはくすぐったそうに首をすくめた。
10年前にこの部屋で赤ん坊のアキラを見つめていた時の事を思い出す。
皮肉な話だと言えなくもない。
父親に忌み嫌われ遠ざけられる原因となったこの瞳の色を
おそらくその父親が理想としていた瞳と髪の色を持つアキラが好きだと言ってくれる。
そして未だに自分の心の奥底に癒えない傷がある事に気付く。
「…緒方さん、ずっとそばに居てくれるよね…。」
無意識の内に指先でアキラの頬を撫でていて、アキラにそう問われた。
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その問いが、アキラが眠りにつくまでの間を差すのか、それとも
それ以上のものを差すのかは分からなかった。
「…それは出来ない。」
他の答え方がその時のオレには出来なかった。
「…人は、いつかは独りぼっちになるんだ。」
黙ったままのアキラの瞳がこちらを向いているのは分かっていたが、そちらを
見る事は出来なかった。部屋を出ようと思い、体を起こした。
その時小さくしゃくりあげる声がした。
振り返るとアキラが両目から大粒の涙を溢れさせていた。
「…アキラくん…」
自分に嫌悪するため息をついて、アキラの傍に戻り、指でアキラの涙を拭った。
「…悪かった」
アキラが首を横に振って両手を伸ばして来た。そのアキラの体を抱き上げるようにして
しっかりと抱き締める。
「ごめんよ。恐い顔をしていたかい?」
落ち着かせようとアキラの背中を撫でた。アキラは首を横に振り、
ただ力一杯オレの首にしがみ続ける。
「―恐い顔をしていたからではなく、緒方さんがあまりに淋しそうだったから、
だから悲しくなって泣いてしまったんです。」
随分後になってそうアキラから聞かされたが、
その時はとにかくアキラを宥める事に必死だった。
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温かく小さな背中は震えて、アキラはなかなか泣き止まなかった。
そのアキラを抱くオレの背中側の襖を隔てた隣に六畳間の部屋がある。
といっても古い箪笥や戸棚類に半分程占領された物置きのような場所だ。
伯父が死んでこの家に来た時、先生には今のアキラの部屋を使うように言われたが、
もっぱらオレは奥のその部屋で寝起きし、碁盤に向かった。
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