裏階段 ヒカル編 46 - 50
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碁会所内は独特の空気と時間が流れている。
競って人生を語り合うような熟年層の男性らの背中が並び、灰混じりの据えた匂いが
鼻につく。斜陽に差し掛かった、あるいはとうにそれを超えた世代が、それこそ
自分の息子や孫程度の年令の者を「先生」と呼ぶ。
そう呼ばれる人種と彼等との違いは、極めて限定された一つの才の為にいかに他の代償を支払い、
そして生涯支払い続けていく事を選ぶ事が出来たかどうかの違いだろう。
アキラが来ている。碁会所のドアから一歩入った瞬間にそれがわかった。
この碁会所の連中のアキラを崇拝する意欲は日に日に強まって行く。無理もない。
誰もが願ったプロ棋士、塔矢アキラの誕生がとうとう現実のものになったのだ。
ここは紛れもなくプロ棋士塔矢行洋が経営する碁会所であり、その名に惹かれて
常連になった者が殆どであるが、先生に対する尊敬や畏怖の念はそのままアキラに
何の問題もなく継承されていくだろう。
月並みな言い方だがそれほどに両者が持つオーラやカリスマ性は一致していた。
いや、むしろアキラの方が勝ると言っても過言ではない。
オレが足を踏み入れた時、その碁会所内の空気が若干緊張した。
オレにしてみればただ夢中で先生を追い続けて、気がついたら塔矢門下生のトップに
立っていた。それだけの話なのだが、彼等にしてみればオレを飛び越してアキラに塔矢門下の
看板を背負わす期待を抱く事に後ろめたさを感じるのだろう。
そんなものなど願った事は一度もないのだが。
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「彼のことなどどうとも」思っていないはずのアキラは碁会所の片隅で黙々と
インターネットでのsaiとの対局の棋譜を並べていた。
棋院から若獅子戦の対戦表が送られてきているはずである。その内容はオレも知っていた。
対戦表を最初に見た時思わず笑いが込み上げて来た。
「…まさか本当に勝ち上がってくるとはな」
進藤の名がそこにあった。しかも対戦者は違えど僅かな空間を隔てて2人の名が並んでいた。
これを見たアキラがどう感じるか想像しただけで可笑しかった。
つくづく進藤とは面白い存在だと思った。
確かに院生試験を受ける段階での口添えはしたが、自力で合格し、そしてアキラとの対決の
可能性がある場へ他を押し退けてやって来たのだ。
まるでこちらが投げたボールを大草原の彼方まで真直ぐに追い掛けて拾い、脇目もふらずに
駆け戻って来た忠実な飼い犬のようだ。失礼な例え方かもしれないが。
アキラはじっくりと、一つ一つの石を置いていた。合間のその時その時の自分の考えに立ち返り
検証するように。しばらくは黙ってその様子を見ていた。
saiとの一局はインターネットで多くの者達の目に触れた。だからふいにオレが背後から現れても
アキラは今までのように慌てて盤面の石を隠そうとはしなかった。
「あれからsaiは一度も現れないんだろ?」
「…はい。ボクが見ている限りでは一度も」
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アキラは手を止めようとしない。
無遠慮に向いの椅子に腰を下ろして煙草に火を点ける。
紫煙がアキラの視線から隠すように盤面を覆った。
アキラとの対局を最後に、付け加えればアキラがインターネットカフェで進藤と会ったのを
最後にsaiは消えた。それも興味深い「偶然の一致」だったが、それはあえて口にしない事にした。
「saiか…。魅力的な打ち手だった」
それは本音だった。紫煙の下の石の並びを眺めながら改めてそう思う。
古風でいて斬新。saiの対局見たさにネットに観客が殺到したのもよくわかる。
だがプロの打ち方とも違う。
流行りの流行画家が描いたものではなく、古の良き時代の匠が遺した造型物を再現されたような
奥行きのある碁…大袈裟な言い方をすればそんな感じだった。軽い嫉妬すら感じるほどの。
「だが表に出てこない者に興味は持てん」
上質な分、どこか浮き世離れした生活感のない碁だった。
さしあたって経済的に困難のない、時間に恵まれた道楽者が何の制約も受けず興じればあるいは
生み出せるものかもしれない。自分達とは違う世界の碁、というべきか。
「若獅子戦の進藤を見にいこうかと思っているよ」
遠回しにsaiの事を話題にするより今は直接進藤をアキラにぶつける事のほうに関心があった。
「saiは消えたが、進藤は出て来た。名人の言葉通りだ。」
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アキラが怪訝そうな表情で顔をこちらに向ける。
それとなく先生も進藤に関心がある旨を伝えたが、それに対するアキラの反応は淡白だった。
「2回戦でキミと進藤はあたるんだろ?是非彼には1回戦勝ってほしいところだな」
それでもアキラは静かだった。ただ黙ってオレを見つめて来た。静かな程に深さを感じた。
正直、羨ましいと思った。
峠を挟んで別々の山野から咆哮しあう狼のようにこの2人は確かに共鳴している。
威嚇しテリトリーを主張しながらも同族の証を呼び覚まし合おうとしている。
「緒方先生、指導碁お願いします」
市河嬢のその呼び掛けに救われるようにしてその場を離れた。進藤をけしかけ楽しんでいた
自分の姿をアキラの前に晒しているのが急に恥ずかしく思えたのだ。
ただ進藤の実力を直接目にしたいと思ったのは確かだった。
目にしたものでなければ信じれない。
若獅子戦の会場に着くとまず進藤の姿を探した。
会場内には棋院の雑誌編集関係者らもいて怪訝そうな視線をこちらに向けるのがわかった。
だからこそ真直ぐ進藤の居る場に向かい、立った。
鼻が利く彼等にここに何かが居るぞと教えてやりたかった。
だが果たして地中深くの変動を、進藤の対局を見る事で果たしてオレにも感じる事が
出来るだろうか。アキラや先生が感じたように。
まるで踏み絵を踏まされるような心境でオレは進藤の対局を見つめた。
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同じ会場にアキラがいた。
進藤に背を向け、彼は淡々と打っていた。
そうしながらも彼の神経が進藤に向けられているのが可笑しい程によくわかる。
自分の目で進藤の対局を確かめたくてたまらないだろう。
安心しろ、オレがじっくり眺めてやる、と心の中でその背中に声をかけてやる。
時間が経つにつれて対局を終えた者らが、それ以前から居たギャラリーに混じって
まだ終わっていない対戦を見守り、ところどころで人が集まり出す。
アキラの周囲にもかなりの人が集まっていた。
進藤に興味を向ける者は1人も居なかった。
見始めてしばらくの感想としては「こんなものか」という程度だった。
若獅子杯に出られる程度の実力、それ以上のものでもそれ以下でもない。
相手の村上ニ段も、特に面白い打ち方をする訳でもない。
二回戦のアキラとの対局を意識し、最小限の労力でさっさと目の前の院生を
片付けたい、そんなところだろう。
そんなところへころりと進藤は奇妙な手を打った。
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