誘惑 第一部 46 - 50


(46)
広いベッドの上にアキラの身体を静かに抱き下ろし、唇にそっとくちづけする。
ネクタイを解き、ワイシャツのボタンを一つ一つ外そうとして、そのひとつは千切れかけ、また別
のボタンは取れてしまっているのを見つけ、緒方は眉を顰めた。目を見開いて、手早く彼の衣服
を脱がせていく。
そして緒方は、アキラがここへ来た理由を彼の身体に見つけた。
肩や腕に残る指跡や痣。食い込んだ爪の跡と擦れたようなすり傷。そして彼の体内に残った
欲望の残滓。荒々しい暴力の痕。誰だ?誰がおまえにこんな傷をつけた?
こんな身体を抱えて、彼が自分の所へやって来たという事を思うと胸が潰れそうだった。
だから―だから、オレなのか?だからマーラーなのか?
それがおまえが最初に受けた暴力だったから?
かつてこの部屋でアキラから投げつけられた絶叫が、悲鳴が、耳に甦るような気がする。

ではおまえの望みはなんだ?
この傷跡を癒すように優しく抱くことか?
それともこんな傷など取るに足らない事と忘れてしまえるように、激しく荒々しく抱くことか?
おまえの望みはどちらだ?アキラ?


(47)
子供のように泣きじゃくるアキラを、またもや男の暴力に晒されて泣くアキラを、優しく抱きしめて、
その傷を癒してやりたいという思う。
だがその一方で、自分以外の男がこの身体を抱いたのだと言う事実に対する激しい嫉妬が、そして
更に、一旦は自分から他の男の下へ去っていったくせに、更に別の男の傷跡を生々しく身体に残し
たまま、また自分に身を委ねようとするアキラへの怒りが、抑えようとしても抑えきれない。

混乱する思いを抱えたまま、緒方はゆっくりとアキラの身体に愛撫を施していく。
緩やかに優しく、そして時にきつく荒々しく。

身体の覚えている感覚が、アキラの全身を駆け巡る。
ヒカルに触れている時、触れられている時とは全く異なるような感覚。
身体のそこここにある敏感なポイントを適度に刺激すれば、感覚は出来上がった回路を辿って
欲望のステップを駆け上がっていく。意識は波にのまれて、脳髄の奥からどろどろに熔けていく
ような感覚を味わう。戸惑いももどかしさもなく、ただこの人の手にわが身を委ねていれば、その
波は確実に自分を奪いつくし、意思も感情も捨て去ってただ感覚のみが全身を支配する。

これが、そうなのか?
これが、ボクの欲しかったものなのか?
ボクを飲み込み、どこかへ連れ去ってしまう圧倒的な力。激しい嵐。
ボクが欲しかったものは、求めていたものは―


(48)
―進藤、

けれどアキラの心に浮かんだのはやはりその名だった。

進藤、進藤…ボクは…
望んで緒方さんに貫かれながら、どうしてそれでもボクは彼を求めているんだ。
今ボクに攻め入っているこの人は、その事を知っている。
ボクが誰の名を呼んでいるか、知っている。
知って、より激しく、ボクを突き上げる。
ボクの不誠実を責めるように。
ボクの貪欲さを責めるように。
浅はかなボクを責めるように。

どうして、どうしてボクはこんな所にいるんだろう。
進藤。どうして、キミを求めているのに、今、ボクの前にはキミがいないんだろう。
進藤。求めているのはそれでもキミなのに、キミだったのに、どうしてボクはそれだけでは足りない
なんて思ってしまったんだろう。

足りない…?そんなふうに思っていたのか?ボクは。
違う。忘れられるはずのない事を、無理矢理忘れなければいけないと、しまいこんでしまったから。
だって、どうして忘れられるんだ。忘れることができるんだ。
ボクを初めて奪ったこの嵐を。ボクをすっかり変えてしまった激情を。
忘れようなんて、思ったことがそもそもの間違いだったのかもしれない。


(49)
「アキラ、」
低い力強い声が、彼を呼ぶ。
目を開けるとそこには懐かしい顔。アキラの瞳は真っ直ぐに彼をとらえる。
端正な顔立ち。薄茶色の瞳。よく知っている、情熱的な熱い眼差し。
「オレを見ろ。何を考えている。誰の事を考えている。ここで。オレの腕の中で。」
「…緒方さん、」
アキラは緒方の首に手を回し、彼の顔を引き寄せる。そのまま緒方の唇がアキラの唇を塞ぎ、
熱い舌が荒々しく口腔内を蹂躙する。アキラの内部で緒方がその存在を主張する。
「あっ…あああぁっ…!」
熱く猛る緒方自身がアキラの内部を鋭く抉るように突くと、アキラは悲鳴のような泣き声をあげ
ながら、緒方にしがみついた。


(50)
「アキラ、」
ぐったりと脱力しているアキラに、緒方がバスルームへといざなう。
だがアキラは弱々しく首を振って、緒方の誘いを拒否する。緒方は小さく息をはいて、アキラを
置いたままバスルームへと消えた。

そのままベッドに伏してたアキラに、戻ってきた緒方の声が降ってくる。
「アキラ、何があったんだ。」
緒方の呼びかけに、アキラは肩越しに振り返って彼を見上げた。
「オレにわからないと思うのか。気が付かないとでも思うのか。
おまえにこんなキズをつけたのは誰だ。進藤のはずがない。
誰だ。何があったんだ。言え。」
「…何も…」
そう言ってアキラは小さく笑った。身体のキズなんてどうって事ない。そんなものはすぐに消える。
そしてくるりと転がって、膝を抱えて座り込んだ。
「別に、大した事じゃあない。」
「大した事じゃなくて、あんなに泣くのか。」
緒方の言葉にアキラは軽く目を見開いた。そして緒方の誤解に小さく笑って答えた。
「違うよ。泣いたのはあなたに会いたかったからだ。
その事に気付いていなかったからだ。そしてその事に気付いてしまったからだ。」
緒方が戸惑ったような顔をして自分を見ている。
「合意だろうが無理矢理だろうが、ボクにはセックスなんて大した事じゃない。」
言ってしまってから、言い過ぎたかな、と少し後悔した。これではこの人を責めているようなものだ。
「あなたを責めてるわけじゃないんだ。ただ…」
言葉を切って、頭の中で少し考える。
「あなただって、別に好きでもない相手とでも簡単にできるでしょう?
例えば前にお会いした女性とか。」
アキラはクスッと小さく笑って、いたずらっぽい目で緒方を見た。と、緒方の頬が若干赤らんでいる
のを発見して、少し驚いた。
「…ごめんなさい。」
目を伏せて謝罪の言葉を口にし、
「シャワー浴びてくる。」
と言って立ち上がり、寝室を出た。



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