平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 46 - 50
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彼にしたら、それこそ、自分が人の心を見通すことができたらよかったのに
と思っていたぐらいなのだ。
で、なければ、どうしてみっともないと考えながらも、毎朝毎夕にヒカルに
くっついて歩いたりするものか、と思う。
ひと月前は違っていたのに。
アキラとヒカルは日々の相談事をしたり、一緒に怒ったり笑ったりしていた。
特に意識しなくても、互いの間には、とても温かい何かが流れていて、心が
繋がっているような、そんな感覚があったのだ。
それが、かの人が消えてからというもの、彼は急にアキラを突き放したように
心を閉ざしてしまった。
彼が悲しんでいるだろうから落ち込んでいるだろうから、一緒にそれを分かち
合い、傷を癒せたらと思っていた。だが、ヒカルはそれを拒絶したように、
アキラの前では哀しみの片鱗すら見せてくれない。
前には見えていた、ヒカルの心が――見えない。
それが切なかった。
ヒカルは碁会所の門を開けると、いつも通り、裏の井戸から水を汲み上げると、
ふき掃除を始めた。
アキラはただそれを、黙って眺めていた。
ヒカルはその足で伊角の家に向かう。さすがにそこまではアキラはついてこ
なかった。
後ろに彼の気配を感じなくなったことに、ホッとして、ヒカルは伊角の家へと
向かう。
伊角はというと、あの夜以来、何事もなかったように和やかな空気がふたりの
間には流れていて、まさにあの夜、ヒカルが「酔ったせいにして、なかったこと
にしてしまおう」と思った、その通りの展開になったといっていい。
それでも、さすがに次の日、内裏に向かう為に顔を合わせた時は気まずくて、
二人して硬直したように固まってから、ぎこちなく言葉を交わして、他の随身
たちに変な顔をされたりはしたけれど。
それでも、ヒカルは不思議と伊角に体の奥を触れられた事に、自分の痴態を
見られたことに恥ずかしさはなかった。
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伊角とそんなことになるのは、初めてではなかったせいでもあっただろうけど、
それ以上に、ヒカルの体は、伊角の生真面目な愛撫を気持ちいいものとして
捉え、その熱を欲していた。
今だって――と、ヒカルは牛車に乗り込む伊角の背中を見ながら思う。
(あの腕に、もう一度抱きしめて貰えたら気持ちいいだろうな)
と、ぼんやり考えている自分がいるのだ。
その伊角は、内裏について清涼殿に向かう前に、なぜかヒカル一人を廊下の
方に呼びだした。
岸本の刺さるようにきつい視線を、背中に受けとめながらついていくと、人気の
ない場所に来て振り返り、奇妙な顔をして、首をかしげた。
「何……?」
ヒカルが聞くと、伊角は今更我に返ったような表情で、慌ててそっぽを向いて
しまった。
そっぽをむいたまま、ちらちらと視線だけはヒカルの方によこすので、焦れて、
何か言いたいのかと重ねて聞くと、
「いや、その、なんでもない。すまない」
と、歯切れも悪く言うと、さっさと清涼殿の方に行ってしまった。
「なんなんだよ」
と、残されたヒカルは首をひねるばかりだった。
その日は夜議が多い近頃には珍しく、議事が日も暮れないうちに終わったので、
ヒカルは伊角を送り届けてから、検非違使庁に顔を出した。
かの人が身罷ってからしばらくは、変に気を使われて居心地も悪かったが、時間が
たった今では、普段付き合いの薄い連中はともかく、三谷や筒井といった親しい
間柄の者たちとの間には、随分と以前の雰囲気が戻ってきていた。
「あれ、近衛、今日も手伝ってくれるの?」
書き物をしていた筒井が、顔をあげて嬉しそうにヒカルに問い描ける。
「うん、なんか、俺ができることある?」
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体の奥に火種を抱えているような今の体調では、いっそ働いていたほうがいい。
自分の中を焦がす熱の存在を忘れられる。自分がそんな淫猥な欲望を抱えて
困っているなんて、決して検非違使庁の連中に知られたくはなかったが。
それに何より、ここがヒカル自身にとって一番しっくりとくる「自分の居場所」
なのだ。
自分は代々検非違使をつとめる家に生まれた。物心ついた時から「お前は
検非違使になるのだ」と吹き込まれて育って、それに違和感を覚えたことはない。
この仕事はヒカルの誇りだ。
内裏の中も興味深いけれど、そのあでやかな作法行事の向こう側で交わされる
権力抗争の恐ろしさを、ヒカルは身をもって体験している。あそこは、佐為や
伊角の場所であって、ヒカルの場所ではない。
やはり、自分にはここがいい。
どんな考え事をしていても、検非違使庁に足を踏み入れれば、すっきりと心が切り
替わってしまうから不思議だ。
太刀を腰に、検非違使の仕事をしていれば、みんな忘れられる。
体を苛む熱さも。
佐為が、もう、いない事だって――。
「伊角んとこの警護もやってるんだろ? 昨日はどれくらい寝たんだ?
寝不足で足手まといになるなよ」
言って、ヒカルの頭を後ろから扇でこづいたのは加賀だ。
そうやってヒカルを扇ではたいたり、こづいたりするのは、彼のいつもの癖な
ので、ヒカルは振り返らなくてもそれが加賀だとわかるのだ。
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「今夜、なんかあるの?」
ヒカルは、検非違使庁内の雰囲気がいつもより、ピリピリとしているのに気が
ついていた。
皆が奇妙に落ち着きなく、建物の中がざわめいている。
加賀が不敵ににやりと笑う。
「いよいよ、五条松虫をやるぜ」
五条松虫とは、一年ほど前から洛中を騒がせている夜盗だ。金品だけではない、
時には馬や、女子供も攫っていく。
一人ではなく、何十人もからなる盗賊団で、五条を中心に荒らし回り、
検非違使たちは下っ端を随分と捕まえたのだが、肝心の首領がなかなか
捕まらない。この首領というのが洒落もので、体のどこかに鈴をつけてい
るのか、逃げ去る時には、いつも検非違使たちを馬鹿にするように、松虫が
鳴くような音をさせながら闇に消えてゆくのだ。ゆえに、五条松虫と呼ばれて
いる。
加賀は扇で自分の肩を、ふたつ叩いて、ヒカルを真正面からまじまじと見据えた。
足の先から頭のてっぺんまで、じっくりと。
神妙な顔をして、ヒカルはその視線を受け止める。
「鍛練はおこたってないだろうな」
黙ってうなずいた。
「よし、今夜は一緒に、大盗賊五条松虫の首領の顔を拝んでやるとしようぜ」
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その夜、ヒカルは古瀬村という人物と組まされた。
いつもなら、こういう荒事の時は加賀と組まされるのだが、その加賀は
この秋の除目で階位が上がってしまい、今回は全体を把握する指揮官の
役どころだ。
加賀いわく
「この古瀬村って奴はお前より年上だけど、検非違使としてはまだまだ
新人だ。せいぜい指導してやってくれ」
ヒカルは、そうこの人物を紹介されて、どうにも武官としてはものたりない
風体の男、たどたどしいと挨拶を交わした。
そして、今は、そいつと共に、右京に近い小さな往来の隅に息を殺している。
加賀がどういった手段でその情報を掴んだかは謎だったが、とにかく、今夜
五条松虫が出るという。
それを、こうして京のあちこちに検非違使を配置して、交代交代で、かの
大盗賊が根をあげてへたばるまで追いかけまわそうというのだ。もちろん
追いつけるのなら、追いついて捕まえてかまわない。足の速い松虫を捉える
ため、馬を用意する検非違使もいたが、馬は鼻を鳴らしたり、蹄を踏みなら
したりで、先にいることを感づかれる危険も高い。
雲は重く垂れ込め、月の光はないに等しい。
盗みを働くには絶好の夜だ。
「こんな、夜は盗賊より先に、物の怪の方がでそうですねぇ」
「弱気になるなよ」
小さくつぶやく古瀬村にヒカルが返す。
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