黎明 46 - 50


(46)
あの香りがどれ程甘やかな夢を見せるか知っている。
心はそれを拒絶しなければならないと思っていても、一度溺れた事のある身体は、あの夢を欲し
てやまない。
全身から脂汗が滲み出そうだった。
歯を食いしばって、ヒカルは香を求める己自身と戦った。
香炉を手に自分を誘う彼は、自分の知っている彼とは全くの別人のように見えた。
これも香の見せる魔なのだろうか。常ならば鋭い抜き身の刃のように斬り付ける眼差しが、今は
濡れて妖しく光り、それは底も見えぬほどの暗い闇の淵のようだ。
黒い瞳がヒカルを誘う。共に闇の中へ堕ちよと。
ヒカルはその闇を、彼を、端麗な冴えた月を、全てを飲み込む深い底なし沼に変えてしまった香
の魔を、心底憎んだ。違う、と心の中で叫んだ。こんなのは彼じゃない。
では彼でなければでは、何だ?
それは。
それは、自分だ。
淫りがましく浅ましく、ただ人肌のみを求めた、闇の底にいた時の己の姿だ。清冽な眼差しが恐ろ
しくて、清浄な彼が妬ましくて、淫猥な身体を擦り付けて彼の内の熱を煽った、あれは自分自身の
姿だ。
そしてヒカルは自分が既に香の魔に囚われてしまっていて、今、己の目に映る彼は真実の彼で
はなく、自らの望むように変貌させた彼なのだと悟る。彼の中に存在しないはずの魔を、自らの闇
を、彼に投影させてしまった自分の心弱さを、そうやって彼を汚した己の闇を、ヒカルは呪った。
憎しみを込めて彼を睨む。
視線にこめられた呪に、眼前の魔物が、怯んだように顔を歪ませた。


(47)
甘い香にうっとりと酔うアキラの顔を、ヒカルが睨みつけるように真っ直ぐに見据えていた。ヒカル
の眼差しがアキラの幻を切り裂き、彼の目の光にあって、アキラは逃げ出しそうになった己の弱
さを呪った。
なにもかもを、台無しにするところだった。最後の最後で、弱さを、脆さを、露呈してしまったことを
アキラは呪い、それをヒカルに気取られたかもしれないと思うと、猛烈に己を恥じた。けれどその
弱さを押し隠して、香炉をヒカルに差し出した。
闇のように深く黒い瞳が妖しくヒカルをいざなう。
けれどヒカルは香炉を睨みつけながら、ゆっくりと首を振った。
アキラはヒカルのその様子を見ながら、もう一服、その香りを胸に吸い込んだ。
深く吸い込みすぎて、頭の芯がぐらぐらと揺れるのを感じた。あと一服、吸い込んでしまえば、自
分もまた、この甘い香りの闇に堕ちるかも知れない。堕ちることを恐れながらも、心のどこかで堕
ちてしまいたいと感じている自分がいる事を、アキラは自覚していた。
香に痺れたこの身体がくず折れそうになれば、彼の手が己の身体を抱きとめてはくれまいかと、
そんな浅ましい考えがちらりと彼の頭の隅をかすめた。それは全てを捨て去り全てを失っても惜
しくは無いと思わせるほど、甘美な毒を含んだ夢だった。
けれど彼は闇に堕ちることもなく、香の魔に囚われる事もなく、ひとたび瞼を閉じ、そしてゆっくり
と開いた時には、その瞳からは先程の妖しさは消え、いつものように鋭い光を放っていた。
そして眼前の少年が先程と変わらず、彼と同じくらい真っ直ぐな眼差しで彼を見つめているのが
わかると、彼の眼は和らぎ、口元に穏やかな笑みをやっと浮かべた。


(48)
すいと横を向いてアキラが合図すると、いつの間にかそこに控えていた童が音もなく立ち上がり、
御簾を上げ戸を開けて、冷たい外気を室内に呼び込んだ。
甘い香りは冷たい空気に吹き払われ、幻はあっという間に消え去った。
香りが完全に消え去るまでの僅かな間、アキラは消えていった幻を惜しんだ。
けれど次の瞬間、大切な友人を取り戻した事を思い出し、彼に向かってもう一度、微笑みかけた。
「よかった、ヒカル…もう、大丈夫だ。」
アキラのその声に、ヒカルは少し照れたような、はにかんだような、そして少しだけ誇らしげな、
けれどほっとしたような笑みを返した。
ヒカルは立ち上がってアキラに近づき、その手をとった。
「ありがとう、アキラ。」
アキラは差し出されたヒカルの手を握り返した。
「心配をかけて、悪かった。俺、もう、大丈夫だから。」
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら、両手で彼の手を強く握り締めた。
ようやく取り戻した友の手の上に、アキラの熱い涙が一粒、落ちた。
涙は一粒では止まらず、ぱたぱたと音を立ててヒカルの手の上に落ちた。


(49)
ヒカルは手の上に落ちる熱い涙を感じていた。
この高貴な魂を持った友が、どれ程の苦労を持ってここまで自分を導いてくれたか、そしてどれ
程自分の身を案じていたか、どれ程、自分の快復を願ってくれていたか、ヒカルは今更のように
思い知らされて、ヒカルの目にも涙が浮かんできた。
「ありがとう、アキラ。」
嗚咽をこらえて震える声で、もう一度、彼の名を呼び、彼の心に応えようとした。
アキラが顔を上げてヒカルを見た。ヒカルは優しくアキラに微笑みかけていた。最後にヒカルの
こんな微笑みを見たのは、いったい、どれ程前のことだったのだろう。ついに取り戻したヒカル
の笑みを前に、アキラは声を詰まらせた。
「あ…、あ」
そしてまたアキラの瞳に涙が溢れ、涙でヒカルの微笑みがぼやけた。
「……ヒカル…!…ヒカル、ヒカル、ヒカル、」
アキラはヒカルの身体を抱きしめ、彼の名を呼びながら声を上げて泣いた。
ヒカルの手が、呼びかけに応えるように、優しくアキラの背を叩いた。


(50)
「…済まなかった、みっともない所を見せて、」
「何を言っているんだ。みっともないのは俺のほうだろう?」
「そんな事はない。」
アキラはこぼれた涙を袖で拭って小さく首をふり、それからやっとヒカルを見上げた。
「…おまえの、おかげだ。ありがとう、アキラ。」
「僕の力など、いかほどのものもない。君が立ち直ったのは君自身の力だ。」
柔らかく微笑みかける眼差しに、ふと怯えたように、ヒカルは俯く。
「おまえ…俺を、軽蔑したり、しなかったのか…?」
「なぜ…?」
「あんな風に…逃げて、馬鹿な奴だって、俺を軽蔑しなかったのか…?」
「軽蔑なんか、する筈がない。」
そう言って、アキラは悲しみさえ感じさせる程に、優しく、微笑みかけた。
「確かに君のとった道は愚かだったかもしれない。だが程度の差こそあれ、ひとは皆愚かな
ものだ。愚かさにかけては君も僕も同じようなものだよ。ただそのあらわれ方が違うだけだ。
そして恋は最も人を愚かにするものだ。」
何か不思議な事でも聞いたように、ヒカルは瞬きしてアキラを見た。
「……おまえが…言うのか?そんな事を…?」
「そうだよ。僕だって、自分の愚かさに嘲うしかないような事だっていくらでもあるさ。」
「そうじゃなくて、…恋って、おまえがそんな事を言うなんて……
もしかしておまえ、誰か想う人がいるのか?」
問われてアキラは僅かに目を瞠ってヒカルを見返した。それから彼はゆっくりと視線を落とし、
小さく首を振った。
「…いるさ、僕にだって。想う人は。」
そして視線を彷徨わせ、どこか遠くを見ているような眼差しで、アキラは言う。
「けれど想う人に想われる喜びを、僕は知らない。
だから想い想われた人に置いてゆかれる悲しみも、僕は知らない。
僕は何も知らないから、君の痛みも苦しみも分からなくて、僕は君の哀しみに寄り添うことさえ
できない。僕の悲しみといったら、そんな自分の不甲斐なさを悲しく思う事くらいだ。」
「そんな事はない。」
「あるんだよ。」



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