とびら 第五章 46 - 50


(46)
お湯の温かさが身体のすみずみにまで染みわたっていく。
変態みたいだと思わないでもないが、どうしても口にしたい衝動に駆られたのだ。
湯船から出て、身体を洗う。そこでまたヒカルを思い出してしまった。
(進藤の使った石鹸……)
ここにいては、いろいろと妄想してしまう。そんな虚しいことはしたくなかった。
シャワーで泡を流し、もう一度湯につかって風呂を出た。
大急ぎで居間に行く。そこにヒカルの姿はなかった。アキラは青ざめた。
一つ一つ部屋を確かめていく。どこにもいない。
廊下の突き当りまで来た。そこに部屋があった。暗い光が漏れ出ている。
障子に手を掛けて、ふと疑問を抱いた。
こんなところに部屋があっただろうか――――?
「ん、あぁっん……」
聞きなれた喘ぎ声に、アキラは息が止まった。そろそろと障子を開いていく。
全裸のヒカルが横たわっていた。その上におおいかぶさっているのは緒方だった。
(緒方さん!?)
声を出したはずなのに、それが空気を震わせることはなかった。
(進藤! 何をしているんだ!)
ヒカルが緒方の太い首に腕をまわす。幸せそうに微笑みながら。
あんな顔をするヒカルを見たことがなかった。緒方に抱かれることがうれしいのか。
緒方の下半身に嫌でも目がいく。
子供のころグロテスクで気味が悪いと思ったそれが、熱を持って反り返っている。
成熟した大人の男の象徴。
それがヒカルの秘所へと押し当てられる。
アキラは止めたかった。だが身体が金縛りにあったように動かない。
指先も石膏でできたように固まったままだ。
せめて目を閉じたいと思うのに、それさえも叶わない。
緒方がヒカルの前髪をかきあげる。その指に違和感を覚えた。
あんなに細長く、なめらかな形をしていだろうか。青白い、指。
ぞくりとする。緒方が恐ろしい。心底、そう思った。
不意に緒方がゆっくりと振り向きはじめた。いや、緒方ではなかった。


(47)
長い黒髪が揺れ、白い横顔が見えた。そのまなざしが、アキラの上をすべっていく。
(おまえは誰だ!?)
知らない。知らないはずなのに知っている。自分はこの人に会ったことがある。
混乱する頭で懸命に考える。
だがそうしているあいだにも、ヒカルに楔が打ち込まれようとしている。
それが誰だろうと、もうどうでも良かった。アキラはありったけの力を身体にこめた。
「進藤から離れろ!」
その声は大きく反響した。目に大粒の熱い水滴が入ってきて、アキラは顔をおおった。
目を開け、自分のいるところを知って驚いた。
アキラは風呂場にいたのだ。
「……夢? 全部?」
呆然とする。心臓がまだ早鐘をうっている。
「夢か……まったく、ボクは……」
アキラは笑った。夢で良かった。本当に、良かった。
(あの夢は、ボクが恐れていることか。じゃあ、ボクが恐れているのは、緒方さん?)
いや、違う。緒方に重ねただけなのだ。自分が本当に恐れているのは――――
(進藤に見え隠れする、影だ……)
それはヒカルの打つ碁だけだと思っていた。だが違うのだ。
(影は進藤自身にもつきまとっているんだ)
どうして今まで気付かなかったのだろうか。少し考えれば見えてくるものなのに。
“sai”の影――――いったいヒカルとsaiはどんな関係をしているのか。
暗闇にいた人を思い出す。しっかり見たはずなのに、顔はもうおぼろげだった。
だがあの強く深い瞳だけは印象に残っている。
(進藤が、あいつにさらわれてしまう)
不安が突き上げてくる。アキラは風呂場を飛び出し、廊下を走った。
足が濡れているせいで転びそうになったが、それでも居間へと急いだ。
勢いよく開け、悲鳴に近い声をあげた。
「進藤!」
ヒカルはテレビを見ていた。アキラは緒方の姿が無いことをすぐに確認した。
「何だよ……って、おまえ、何てかっこうしてんだよ!」
何一つまとっていないアキラを見て、ヒカルを目を丸くした。


(48)
ヒカルが急いで首にかけていたタオルをアキラの腰に巻いてきた。
「おまえ、家では風呂の後は何も着ないのか?」
「いや、そういうわけじゃ……きみのことが心配で、その……」
怪訝な顔をしたが、思い当たったようでヒカルは不快そうにした。
「オレが緒方先生と、何かしてると思ったんだ? そうだよなあ、塔矢はオレのこと、
みさかいのないやつだと思ってるみたいだもんな」
そう言いながらもヒカルは自分のジャージの上を脱ぎ、アキラの肩にかけてくれた。
アキラはヒカルの手首をつかんだ。
「すまなかった。本心じゃないんだ。つい言っただけなんだ。許してほしい」
「……やけに素直だな。ま、いいか。許してやるよ」
あけはなしの笑顔が胸の痛みをとりのぞく。
だがアキラはどうしても自分で傷をえぐらなければならなかった。
「進藤、きみの、唯一無二の存在は誰だ」
それが知りたかった。アキラは悲愴な表情をしていた。
だがヒカルはため息をつくと、呆れたように頭を振った。
「おまえら、同じようなことを言ってくんのな。いい加減にしてくれよ」
和谷と自分のことをさしているのは明らかだった。アキラは唇をかんだ。
ひとくくりにされたことが、とても嫌だった。
和谷と自分は違う。
そう言ってやろうと思った。だがヒカルが真剣なまなざしを向けてきた。
一瞬、夢のなかの影と重なった。
「進藤……」
「おまえはどうなんだよ。人のことばっか言うけど、おまえはの唯一無二は誰なんだよ」
アキラは言葉を失ってしまった。今さら、何を言うのだ。
わかりきったことではないか。こんなにも自分はヒカルへの思いで苦しんでいるのに。
ヒカルだってそれをわかっているはずなのに。
「どうして、そんなことを言うんだ。そんなわかりきったことを。きみはわざわざ言葉に
しなくてはわからないのか? ボクのきみへの態度ではわからないのか?」
ヒカルは決まり悪そうに肩をちぢめた。だがしっかり反論してきた。
「だって、おまえ、オレのこと考えてる?」
その言葉にアキラは衝撃を受けた。


(49)
アキラは自分を振り返って、愕然とした。
そんなこと、今まで意識したことがなかった。
(ボクは自分の気持ちばかりを押し付けていたのか……?)
黙り込んでしまったアキラを見て、ヒカルは軽く笑った。
それはアキラを蔑んだものではなく、むしろ自嘲しているようなものに見えた。
「気にするなよ。オレだって自分のことしか考えてないんだから」
はっきりそう言われると苦しかった。こんなのは嫌だ。
誰よりもヒカルが大切で愛しいのに、それがわかってもらえないのは嫌だ。
そう思うのは自分勝手なものかもしれない。それでも。
「ボクはきみが好きだ。ボクの唯一無二はきみだ。きみなんだ」
「でも、オレの唯一無二は塔矢じゃない」
和谷でもないぞ、とヒカルは真面目な顔で付け加えた。
それでは誰なのか。そう思ったがヒカルが先に会話に区切りをつけてしまった。
「もうこの話はいいよ。それより、早く服着ろよ」
ヒカルが背中を押す。その手のひらが温かい。
「ボクはきみになら、抱かれてもいいと思っている」
「は? 抱かれるって、オレが抱くってことか?」
「そうだ」
アキラが振り返ると、ヒカルは困惑したような顔をしていた。
少し思案するようにまつげを伏せていたが、アキラの顔を見て言った。
「いいよ。めんどくさい」
「めんどくさい!?」
信じられない言葉に、アキラはもう一度それを繰り返した。
ヒカルは髪の後ろに手をやり、うなずいた。
「だって入れるまで、いろいろ準備するじゃん? それがなあ、ちょっと」
アキラは長い息を吐いた。ヒカルが自分をどんなふうに思っているかよくわかった。
自分が想っている10分の1も、ヒカルは想ってくれていないのだ。
アキラの気落ちした様子に、さすがのヒカルも悪いと思ったのだろう、視線を左右に
走らせて言葉を探している。
だがすぐにそれはあきらめたようだ。アキラは肩を引き寄せられた。
ヒカルがキスをしてきた。なだめるかのように、舌が唇をくすぐる。
こんなことでほだされないぞ、と思ったが唇が離れるころにはしっかりほだされていた。


(50)
緒方は大部屋に布団を三組敷いていた。
これでもう今夜は何もできないとアキラは腹をくくった。
ヒカルを中央にして、緒方は廊下側、アキラは庭側に陣取った。
緒方は寝床にまで酒を持ち込んでいた。しかも熱燗である。匂いだけで酔いそうだ。
「冬は熱いのがうまいが、すぐにぬるくなるのがな。冷めたら飲めたもんじゃないし」
「杉の箸を入れて、もう一度あたためるといいって、じいちゃんが言ってた」
「まあ香りがうつるから、何とか飲めるかもしれんが、やはりなあ……」
緒方は一人でいつまでもしゃべりつづけた。だんだん話の内容が脈絡のないものとなり、
ろれつもまわらないようで、何を言っているのかわからなくなっていった。
そしていつしか部屋に静寂が訪れていた。
「進藤、もう寝た?」
小さな声で呼びかけると、ヒカルはアキラのほうを向いた。
薄闇に、その開いた目がよく見えた。
「そっちに行ってもいい?」
ヒカルは緒方をちらりと見て、迷ったふうだったが、布団を軽く持ち上げた。
「何もするなよ」
アキラはうなずいて、ヒカルの布団のなかにすべりこんだ。
目の前にヒカルの唇があったので、アキラはすかさず口づけた。
「塔矢……!」
とがめるような目をしたが、アキラは笑ってもう一度その唇に触れた。
そしてその耳をぺろりと舐め、噛んだ。ヒカルの身体がびくついた。
「あっ……」
「キスくらい、いいだろう?」 
ヒカルは目をつむり、だめだ、とかすれ声で言った。
残念だったが、アキラはすぐさま他の遊びを思いついた。
「じゃあ、この服のなかに入ってもいい?」
「え? のびるからヤダよ。おいっ、聞けよ」
ごそごそとアキラは服のなかにもぐりこんでいた。
いちいち了承をとっていたらきりがない。だいたい、いつもヒカルはダメだと言うのだ。
ヒカルの肌を頬で堪能する。さらに進むと、目の前に乳首が現われた。
まだそれは低く、まわりに埋没していた。そっとそれを口に含み、舌先で転がした。
そうしていると口の中のそれははっきりとした形を持ってくる。
何もしない、という約束など、アキラの頭からは完全に消えていた。



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