黎明 47 - 48
(47)
甘い香にうっとりと酔うアキラの顔を、ヒカルが睨みつけるように真っ直ぐに見据えていた。ヒカル
の眼差しがアキラの幻を切り裂き、彼の目の光にあって、アキラは逃げ出しそうになった己の弱
さを呪った。
なにもかもを、台無しにするところだった。最後の最後で、弱さを、脆さを、露呈してしまったことを
アキラは呪い、それをヒカルに気取られたかもしれないと思うと、猛烈に己を恥じた。けれどその
弱さを押し隠して、香炉をヒカルに差し出した。
闇のように深く黒い瞳が妖しくヒカルをいざなう。
けれどヒカルは香炉を睨みつけながら、ゆっくりと首を振った。
アキラはヒカルのその様子を見ながら、もう一服、その香りを胸に吸い込んだ。
深く吸い込みすぎて、頭の芯がぐらぐらと揺れるのを感じた。あと一服、吸い込んでしまえば、自
分もまた、この甘い香りの闇に堕ちるかも知れない。堕ちることを恐れながらも、心のどこかで堕
ちてしまいたいと感じている自分がいる事を、アキラは自覚していた。
香に痺れたこの身体がくず折れそうになれば、彼の手が己の身体を抱きとめてはくれまいかと、
そんな浅ましい考えがちらりと彼の頭の隅をかすめた。それは全てを捨て去り全てを失っても惜
しくは無いと思わせるほど、甘美な毒を含んだ夢だった。
けれど彼は闇に堕ちることもなく、香の魔に囚われる事もなく、ひとたび瞼を閉じ、そしてゆっくり
と開いた時には、その瞳からは先程の妖しさは消え、いつものように鋭い光を放っていた。
そして眼前の少年が先程と変わらず、彼と同じくらい真っ直ぐな眼差しで彼を見つめているのが
わかると、彼の眼は和らぎ、口元に穏やかな笑みをやっと浮かべた。
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すいと横を向いてアキラが合図すると、いつの間にかそこに控えていた童が音もなく立ち上がり、
御簾を上げ戸を開けて、冷たい外気を室内に呼び込んだ。
甘い香りは冷たい空気に吹き払われ、幻はあっという間に消え去った。
香りが完全に消え去るまでの僅かな間、アキラは消えていった幻を惜しんだ。
けれど次の瞬間、大切な友人を取り戻した事を思い出し、彼に向かってもう一度、微笑みかけた。
「よかった、ヒカル…もう、大丈夫だ。」
アキラのその声に、ヒカルは少し照れたような、はにかんだような、そして少しだけ誇らしげな、
けれどほっとしたような笑みを返した。
ヒカルは立ち上がってアキラに近づき、その手をとった。
「ありがとう、アキラ。」
アキラは差し出されたヒカルの手を握り返した。
「心配をかけて、悪かった。俺、もう、大丈夫だから。」
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら、両手で彼の手を強く握り締めた。
ようやく取り戻した友の手の上に、アキラの熱い涙が一粒、落ちた。
涙は一粒では止まらず、ぱたぱたと音を立ててヒカルの手の上に落ちた。
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