落日 49
(49)
京の都の一角に、口にする事を禁ぜられた屋敷がある。
その名は誰もが知っている。けれど問われてその名を応えるものはいない。五条の御息所と呼ばれ
るその女性は、今上帝の即位に纏わる暗い噂と共に、その存在そのものが禁忌であった。
だが禁ぜられても尚、口の端にのぼるものもある。それが噂と言うものだ。
口にする事を憚られるが故に、その噂はひたひたと冷たい水が染み透るように都に広まっていった。
禁域とも化したかの屋敷に、見目美しい童子が香に溺れていると言う。香に囚われた少年はただ人肌
の温もりを求めて、誰と言わずただそこにいる人に縋り付くのだと。ひとたび彼を抱いた者がその味が
忘れられずに再びその屋敷を訪れても、二度目の目通りを許されたものはいない、と言う者もいれば、
自分の知り合いは何度も通ったらしい、と言う者もいた。
ある者はその少年はかつて一時期宮中に見かけたこと少年だと言う。だが、どこで、誰と、と問われる
と口を噤み、そこでまたもや口にしてはならぬ名に当たる。
かつての帝の囲碁指南役、とそれさえも辺りを憚るように更に声を潜めて伝えられる。その少年はかつ
ての囲碁指南役の警護役であったと。けれどその言に、異を唱えるものもいる。その少年は追放された
人の後を追って同じく池に身を投げたのだから、その妖しの少年とは別の者であろう、と。どちらにせよ
不確かな噂の中で彼が何者であるかは誰にも確とは知れぬ。噂は噂にすぎず、それを確認する術は
ない。直接問うたところで返ってくるのは否定の返事しかない。禁ぜられたその屋敷に通うことはその
まま禁忌に触れる事であり、それは「ありえないこと」「あってはならぬこと」なのだから。
いや、問うべき相手すら明確ではない。「知り合いが人づてに聞いた所によると」と、噂はその出所さえ
曖昧に、真否を確かめることなど不可能であるのに、まるでそれが唯一の真実であるかのようにひた
ひたと流布していく。
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