黎明 49 - 53


(49)
ヒカルは手の上に落ちる熱い涙を感じていた。
この高貴な魂を持った友が、どれ程の苦労を持ってここまで自分を導いてくれたか、そしてどれ
程自分の身を案じていたか、どれ程、自分の快復を願ってくれていたか、ヒカルは今更のように
思い知らされて、ヒカルの目にも涙が浮かんできた。
「ありがとう、アキラ。」
嗚咽をこらえて震える声で、もう一度、彼の名を呼び、彼の心に応えようとした。
アキラが顔を上げてヒカルを見た。ヒカルは優しくアキラに微笑みかけていた。最後にヒカルの
こんな微笑みを見たのは、いったい、どれ程前のことだったのだろう。ついに取り戻したヒカル
の笑みを前に、アキラは声を詰まらせた。
「あ…、あ」
そしてまたアキラの瞳に涙が溢れ、涙でヒカルの微笑みがぼやけた。
「……ヒカル…!…ヒカル、ヒカル、ヒカル、」
アキラはヒカルの身体を抱きしめ、彼の名を呼びながら声を上げて泣いた。
ヒカルの手が、呼びかけに応えるように、優しくアキラの背を叩いた。


(50)
「…済まなかった、みっともない所を見せて、」
「何を言っているんだ。みっともないのは俺のほうだろう?」
「そんな事はない。」
アキラはこぼれた涙を袖で拭って小さく首をふり、それからやっとヒカルを見上げた。
「…おまえの、おかげだ。ありがとう、アキラ。」
「僕の力など、いかほどのものもない。君が立ち直ったのは君自身の力だ。」
柔らかく微笑みかける眼差しに、ふと怯えたように、ヒカルは俯く。
「おまえ…俺を、軽蔑したり、しなかったのか…?」
「なぜ…?」
「あんな風に…逃げて、馬鹿な奴だって、俺を軽蔑しなかったのか…?」
「軽蔑なんか、する筈がない。」
そう言って、アキラは悲しみさえ感じさせる程に、優しく、微笑みかけた。
「確かに君のとった道は愚かだったかもしれない。だが程度の差こそあれ、ひとは皆愚かな
ものだ。愚かさにかけては君も僕も同じようなものだよ。ただそのあらわれ方が違うだけだ。
そして恋は最も人を愚かにするものだ。」
何か不思議な事でも聞いたように、ヒカルは瞬きしてアキラを見た。
「……おまえが…言うのか?そんな事を…?」
「そうだよ。僕だって、自分の愚かさに嘲うしかないような事だっていくらでもあるさ。」
「そうじゃなくて、…恋って、おまえがそんな事を言うなんて……
もしかしておまえ、誰か想う人がいるのか?」
問われてアキラは僅かに目を瞠ってヒカルを見返した。それから彼はゆっくりと視線を落とし、
小さく首を振った。
「…いるさ、僕にだって。想う人は。」
そして視線を彷徨わせ、どこか遠くを見ているような眼差しで、アキラは言う。
「けれど想う人に想われる喜びを、僕は知らない。
だから想い想われた人に置いてゆかれる悲しみも、僕は知らない。
僕は何も知らないから、君の痛みも苦しみも分からなくて、僕は君の哀しみに寄り添うことさえ
できない。僕の悲しみといったら、そんな自分の不甲斐なさを悲しく思う事くらいだ。」
「そんな事はない。」
「あるんだよ。」


(51)
「なぜ…そんな寂しいことを言うんだ…?」
「僕の想う人は、他の人を見ているから。」
そう言ってアキラは小さく微笑った。その寂しげな微笑みに、ヒカルは胸が痛むのを感じた。
「だから、こんな事を言うと君は怒るかもしれないが、むしろ、あれほど苦しみ悩むことの出来る
君をほんの少しだけ羨ましいと、僕は思ったよ。」
応えることができずに、ヒカルは小さく首を振った。
「僕の想う人は僕の想いを知らない。知らないまま他のひとを見ている。
けれど例えその人が僕を見なくても、けして僕を愛さないと知っていても、僕はその人が生きて
いてくれるだけで幸せなのだと、僕は思う。僕は……」
アキラは言葉を詰まらせた。
「…それだけでいい。その人がその人らしくこの世にいてくれれば…」
君が君らしく生きていてくれればそれだけで僕は幸せだ。
なのに、一番大切な人を亡くしてしまった君の前で「生きていてくれれば」なんて口にしてしまう
なんて、それがどんなに君を傷つけるか口に出すまで気付かないなんて、こんな僕が君を望む
なんて、こんな強欲は、それこそ秩序を超えようとするような罪悪だ。
「すまない…君の前でこんな事を言うなんて。それでも…」
何かをこらえようとアキラの身体が震えるのを見て、ヒカルはその身体を抱きしめてやりたいと
思った。自分を闇の淵から救い出してくれた、この凛とした、何にも負けない強い眼差しを持った
年若い陰陽師が、こんな風に見ていて切ないほどの哀しみに身を震わせるのを、初めて見た。
そして、彼をこんな風に哀しませるのは一体どこの誰なのだろうと、思った。
彼にこんな風に想われて想いを返さずにいられるなんて、気付かずにいられるなんて、よっぽ
ど鈍感な馬鹿者だ。その人は他の誰かを見ているのだと彼は言っていたが、彼以上の者なん
てそうそういはしないだろうに。

そんな事を考えてしまうのは心のどこかでその誰かを妬ましく思っている自分がいるからだと
いう事に、ヒカルは気付かないふりをした。それは誰だと、問いたい気持ちは口には出さず、
ただ、彼の想いがその相手に届くことがあればいいのに、と思うだけで、その誰かを羨ましい
と思う気持ちに蓋をした。


(52)
ヒカルは縁側に座り、冬枯れの庭を見るともなく見ていた。
一陣の風が吹き通り、その風の冷たさにヒカルは身を震わせた。
そしてふいにアキラに抱きしめられた時の、彼の腕の力強さと、彼の身体の熱さを思い出した。
それから、彼が想い人を語った時の、眼差しの奥の秘められた熱情と、深い悲哀を思った。
その熱いまなざしが、誰か、自分の知らない人に向けられたものなのだという事が、なぜだか
わからないけれど、とてつもなく、寂しかった。
ヒカルの目に涙が浮かび、一筋、頬を伝って流れた。
その涙が、アキラの悲哀が自分にも伝わったためなのか、それとも何か他の涙なのか、ヒカル
にはわからなかった。けれど佐為を失った悲しみではないことだけは確かで、自分にそれ以外
の涙が残っていたのが、何か不思議だった。
いや、それは残っていたものではなく、新たに生まれたものなのかもしれない。そう思って更に、
自分の中に新たに生み出されるものがあった事にヒカルは驚いた。
佐為を失って、自分は何もかも失くしてしまったように思っていた。
だがそれはもしかしたら間違いっていたのかもしれないと、この時初めて思った。
庭に降り立ち天を仰ぐと、天空は晴れわたり、月のない夜空にはけれど星がきらめいていた。
「佐為…」
天を仰いで星を見上げ、ヒカルは逝ってしまった人の名を呟いた。
愛した人に愛された記憶を持つ自分は、確かに幸せだったのかもしれないと思いながら。


(53)
ゆっくりと、ヒカルの身体は快復していった。
ヒカルは剣の稽古を始め、落ちてしまった筋肉を取り戻そうと、鍛錬を始めた。
けれどそうしながらも、ヒカルは自分が完全に復調することを恐れていた。
そうしたらここを出て行かなければならない。
それが嫌だった。
それ程に、ここは居心地がよかった。

あれ以来、アキラは自分の心を語ることをしなかった。そしてヒカルに何かを問うことも、しなかっ
た。ただ、ヒカルの身体をいたわるように、吟味した滋養に溢れた食事を彼のために用意し、黙っ
て彼の快復を待った。
式を残して、宮中に出かけることもあったが、その時もヒカルへの温かい食事は忘れられる事な
く出された。
最近になってアキラが頻繁に留守にするのも本当はヒカルのためで、ヒカルを元の職に復帰させ
るために奔走しているのだということは、ヒカルにもわかっていた。
けれどヒカルはその気遣いに一抹の寂しさを感じていた。
何も問わず、責める言葉の一つもなく、ただ黙ってヒカルを受け入れてくれるアキラという存在か
ら、ヒカルは離れがたく感じていた。
彼がヒカルを見るときの穏やかな微笑みは、先に逝ってしまった人の春の日差しのような暖かい
微笑みとは全く違っていたけれど、けれどその微笑みを見ると、ヒカルは自分の心が不思議に落
ち着くような気がした。



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