落日 49 - 56
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京の都の一角に、口にする事を禁ぜられた屋敷がある。
その名は誰もが知っている。けれど問われてその名を応えるものはいない。五条の御息所と呼ばれ
るその女性は、今上帝の即位に纏わる暗い噂と共に、その存在そのものが禁忌であった。
だが禁ぜられても尚、口の端にのぼるものもある。それが噂と言うものだ。
口にする事を憚られるが故に、その噂はひたひたと冷たい水が染み透るように都に広まっていった。
禁域とも化したかの屋敷に、見目美しい童子が香に溺れていると言う。香に囚われた少年はただ人肌
の温もりを求めて、誰と言わずただそこにいる人に縋り付くのだと。ひとたび彼を抱いた者がその味が
忘れられずに再びその屋敷を訪れても、二度目の目通りを許されたものはいない、と言う者もいれば、
自分の知り合いは何度も通ったらしい、と言う者もいた。
ある者はその少年はかつて一時期宮中に見かけたこと少年だと言う。だが、どこで、誰と、と問われる
と口を噤み、そこでまたもや口にしてはならぬ名に当たる。
かつての帝の囲碁指南役、とそれさえも辺りを憚るように更に声を潜めて伝えられる。その少年はかつ
ての囲碁指南役の警護役であったと。けれどその言に、異を唱えるものもいる。その少年は追放された
人の後を追って同じく池に身を投げたのだから、その妖しの少年とは別の者であろう、と。どちらにせよ
不確かな噂の中で彼が何者であるかは誰にも確とは知れぬ。噂は噂にすぎず、それを確認する術は
ない。直接問うたところで返ってくるのは否定の返事しかない。禁ぜられたその屋敷に通うことはその
まま禁忌に触れる事であり、それは「ありえないこと」「あってはならぬこと」なのだから。
いや、問うべき相手すら明確ではない。「知り合いが人づてに聞いた所によると」と、噂はその出所さえ
曖昧に、真否を確かめることなど不可能であるのに、まるでそれが唯一の真実であるかのようにひた
ひたと流布していく。
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伝わるごとに少しずつ形を変えていきながら人伝に広まりゆく噂は、真実から最も遠い所がまるで真実
であるかのように形成されることもあれば、何の根拠もなく誰の弁ともなく、けれども確かに真実に近い
形が、混沌の中から浮かび上がってくることもある。だがそれを聞く者にとってはそれがどれ程真実に
近いのか、遠いのか、確かめる術はない。知り得る者がいたとすれば当の噂の的の本人以外にはな
かったろう。だがその本人が既に禁忌である時、また、物言わぬ、己を失った者である時、真実などと
言うものはもはやどこにも存在しなくなる。
今ではその名を禁ぜられたかの囲碁指南役の最後の因縁の試合の、その真実は果たしてどこにあっ
たのか。座間方の陰謀であったとか、不正を働いたのは実は対局相手の方であったとか、いや、そも
そも彼が不正など働くはずがない、と、亡くなった人を知る者は言葉少なにそうこぼした。だがそれは
負け犬の愚痴以上のものに捉えられる事はなく、内心それに頷く者はいても、「あるべきでない」噂を
はっきりと肯定する者も、また否定する者も、いよう筈もいなかった。
だから、口にすることを憚られる存在は速やかにその存在を抹消されていく。誰もが、そして誰よりも
最高権力者たる今上帝が、その事件を葬り去ってしまいたいと、なかった事にしてしまいたいと思って
いたのだから。
そして宮中にはまた禁忌が加わる。
「藤原佐為」という名はそのまま葬り去られ、口の端に乗せることを禁ぜられる。「先の囲碁指南役」と
いう呼び方でさえ、辺りを憚りながら低い囁き声でのみ音にされる。
そうして二重の禁忌に隠された噂だけがひたひたと、見えない水のように広がっていった。
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私は噂話というものは好まぬ。ましてやそれが己を遠ざけるように囁かれ、近づいたときにはぴたり
と話し止まれてしまうようなものは。初めは気にもかけなかったが、度重なれば気に障る。またもや
私の姿を見て口を噤んだ男を、耐えかねて捕まえ、問うた。「今話していた話を続けよ。」と。
「は…しかし……」
けれど彼は容易に口を割ろうとはしなかった。どうやらその話の内容によって私の不興を買う事を
恐れているようであった。馬鹿馬鹿しい。既におまえは不興を買っているというのに。
「私の前では話せぬ話があると?」
「いえ…そのような、」
「では、申せ。」
正面から睨み据えればもはや拒み続ける事などできる者はいない。
「……主上の思し召しとあれば…申し上げます。」
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「五条の…?」
その者の口からその名が漏れた時、私は鬼のような形相をしていたのかも知れぬ。
常なれば口にする事を許されぬ禁忌に、事もあろうにそれを禁じた当の本人に向かって口にして
しまった事に、彼の顔がさっと蒼ざめた。けれど私は先を促し、そこで話を断つ事を許さなかった。
怯えながらも彼は続ける。
彼の話に半ば耳を傾けながら、その女を思い出していた。
美しい女だった。けれど、それ以上に恐ろしい女だった。甘くむせるような香に溺れて、ただ一度、
契りを交わした。誑かされた、という方が正しいかも知れぬ。あの香の正体が何であるかは知ら
ぬ。けれどあの香に惑わされなければ、父の女と関係を持つなど、いかな自分と言えど、ありえ
ない事だったろう。人に知られれば二人とも身の破滅であろうに、何を思って憎いはずの女の息
子に手を伸ばしたのか。
真意などわかろう筈もない。
いや、それとも、あの頃既にあの女は壊れかけていたのかも知れぬ。なぜなら私に貫かれ私に
絡みつきながら彼女が呼んだのは、私ではなく彼女の息子の名だったのだから。最愛の息子を
失って、もはや恐れるものなど何もなかったのだろうか。それとも彼の死の遠因である私を肉欲
に引きずり込むことによって、復讐を遂げようとでも思っていたのだろうか。
甘い香に幻惑されながら、じっとりと熱く甘く、うねるように己を包み込んだ肉がその時私に与え
たものは、快楽よりも恐怖に近く、それ以来、私にとって女というものは恐ろしく、またおぞましい
存在でしかない。
そのような苦い思い出に耽っていた時に、また、もう一つの名を聞いた。
五条の御方。先の囲碁指南役。そのような呼び方でさえ、それは口に乗せられる事を禁じられた
名だった。言の葉に乗せることもなく、けれど確かに私はそれを禁じた。迂闊にその名を口にした
ものの行く末から、人々はそれが禁忌である事を思い知ったのであろう。その二つは私にとって
は全く違った意味で、二度と、触れたくはない名だった。
なぜそれらの二つの名がここで結び付くのか。
彼らが口を閉ざしたがるのもわかるような気がした。
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けれどそれでも私は先を促す。
「彼の警護役……?」
確たる証しは無いのですが、と彼は言う。当たり前だ。伝え聞いた噂話にそのようなものがあろう筈
がない。
だがそれが「彼」自身の事でなく、「彼」の警護役の事なのだと聞いて、私は途端に興味を失った。
そのようなつまらぬ噂話を、画策して自分から遠ざけようなどとしたのか。
彼に縁りの者がどこで何をしていようと、もはや自分には何の関わりもない。
ただ。
ふとその少年を思い出す。都人には珍しい明るい前髪の、明るい笑顔の少年であったように思う。
あのように目立つ容姿の者であれば、成る程、二つの禁忌に触れる事でも、人々の口の端にのぼり
口さがなく噂されてしまうものなのかも知れぬ。内裏でも何度か姿を見かけた少年の、その名は、何
と言ったろう。確かその名を聞いた時にはひどく合点がいったものだ。だが今、その名が何であった
かを思いだせぬ。
いや、思い出す必要もないだろう。
あの美しい囲碁指南役はもういない。
なれば、彼のかつての警護役が何だと言うのだ。
落ちぶれた家に落ちぶれた者が囲われているというのなら、それもまた似合いであろう。あの女が
見捨てられた子犬を拾っては慰み者にする事など、今に始まった事ではない。それが誰であれ、
自分が何か言い立てる必要などあるまい。
全てはなすがままに、流れのままに流れてゆくしかないのだ。
「よい。捨てておけ。」
そう言い捨てて、先に女御に取り立てた女の住まう宮へと足を運んだ。
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歩きながら彼のことを思い出していた。
実際の所、自分は何も目にしなかったし、だから何の確証もない。
けれど、誰も目にしなくとも自ずと明らかになる真実というものもある。
彼を責めたて、詰り、貶めようと言葉汚く罵った者の醜い顔が蘇る。自らの内部に醜い蛇を飼う者
ほど、他人を悪し様に罵るものだ。罵り言葉など、全てその者の内にあるものでしかない。
どちらに不正があったかなど、言うまでも無い事と思ったが、だがその時自分の胸中にあったのは
別の事だった。不正がどちらにあったかなど、どうでもいい事だった。彼が不正などはたらく筈がな
い。彼を知るものなら誰もがそれを知るだろう。
己を不正を言い当てられそうになって殊更に言い立てる者を彼は非難するように見つめ、それから
何かを求めるように私を見た。その視線を受け止めた私は、けれど己の罪を他人に擦り付けんと汚
れた言葉を吐き連ねるものよりも、さらに醜い顔をしていたのかもしれない。
私を見た彼の美しい面に浮かんだものは、驚愕と、不信と、そして最後に私が見たのは絶望と諦め
の混じった、凄惨ともいえる薄い笑みだった。
どちらに正義があるかなど、どうでもいい。
助けてくれ、と言えばよい。
助けを求めれば助けてやろう。
その代わり――
私の差し出したものは彼の求めたものでなく、それゆえ最後まで彼はそれを拒み、その結果、「帝の
囲碁指南役」は失脚し、この世から消え去った。
その事を悔やみはしない。他の道があったとも思えぬから。
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初めは拒まれているとは思わなかった。己を拒むような者がいるなど、思いもしなかった。
碁盤を挟んで彼と相対し、優美な白い指が自分の打った石に応えるとき、より正しい、美しい筋へ
と導こうとするのを感じる時、なぜか胸が高鳴るのを感じた。
それなのに、盤上ではあれほど優しく自分を導いてくれた彼は、一たび盤を片付けててしまうと、
こちらがどうとりなそうと、柔らかく微笑みながらも、きっぱりとそれらを拒絶した。どれ程高価な宝
物も、珍しい綾錦も、彼の心を動かすには足りなかった。
次第に苛立ちが混ざる。
それでも彼の姿を目にし、対局しながら彼の指導を受け、終局した後にはどこか硬く逸らされる彼
の眼差しを目にする時、正体もわからぬ何かが、胸の中で蠢く。そのざわめきが彼を引きとめよう
とし、だがそのざわめきが彼をまた遠ざける。己が彼を呼び、取り立てようとすればするほど、傍に
置こうとすればするほど、彼は自分を拒み、自分から遠ざかって行った。
それとも拒まれたからこそ自分は彼を望んだのだろうか。
わからぬ。
なぜなら生まれてからこのかた、自分を拒んだものなど彼を除いていないのだから。
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藤原の娘を愛しく思っていたわけではない。愛しいという想いなど知らぬ。ただ、自分の一存のみ
であの囲碁指南役を退けたから、その事で傾いてしまった天秤を元に戻すために、彼女を女御に
取り立て、いずれ子を産めば中宮となるのだろう。
どこか彼に似た面差しのある、その女が傍らから見上げている。
「つい先程まで、新しい女房と碁を打っていたところでしたのよ。
中々の上手のもので、よろしければ主上も一局いかが?」
「いや、碁はよい。」
「あら……確かにわたくしでは主上の相手は務まりませんけれど、あの者でしたら…」
「いや、よい。碁はもう、飽きた。」
「まあ。」
と、彼女は嘆息する。
「以前はあんなに夢中であられましたのに。」
そんな女御の言葉を他人事のように聞き流す。
彼でなければつまらぬ。
いや、碁に夢中だったのではない。彼に、夢中だっただけだ。
美しく優美な青年。白い指先から繰り出される一手。高らかな音をたてて打ち据えられる白と黒の
石。彼との対局は会話だった。自分の置いた石に彼が応え、その石にまた自分が応える。そうして
十九路の小さな都の上に築き上げられる世界。相手が彼であってこそ、その遊びに夢中になった。
その彼なくして、碁など、何が面白いだろう。
きっともう碁を打つ事は無いだろう。そんな気がする。
自分が碁を打たなくなって、残されたあの囲碁指南役はどうするだろう。
どうもしまい。彼は碁を打つ事よりも「帝の囲碁指南役」という名の方が大事なのだから。今更それ
を取り下げる気も無いから、あの者もそれで満足だろう。自分が碁なぞ打たずとも、内裏の中には
何の支障も無い。所詮はただの遊びだ。
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