黎明 5 - 12


(5)
また、誰か来た。
それが誰であるかもわからずに、彼はいつものようにその人の首に腕を絡ませ、唇に唇を重ね、
その人の体温を確かめるように身体を摺り寄せる。
だが、その人の反応はいつもとは違った。
いきなり身体を突き飛ばされてもまだ彼はぼうっとしたまま、焦点の定まらない目で、その人物を
見あげた。見下ろす視線が、黒く光る一対の眼光が、甘い闇を切り裂くように彼を射た。
「僕がわからないのか?」
鋭い声が彼を責める。反射的にその光から逃れようとしたが、両手で肩を掴まれていて、逃げる
事はできなかった。いや、彼の身体に、逃げ出すだけの力は、残されていなかった。
「だれ…だ…よ…」
口を利くのは久しぶりで、思うように舌が回らず、途切れ途切れにしか話せない。
「近衛!」
近衛、だって?そんな名はもう捨てた。彼を守りきれなかった自分に、今更守れるものなどない。
「誰…だ、よ……知らねぇよ、おまえなんか…!」
折角最近では忘れていられたのに、なんで今更思い出させようとなんてするんだ。
出てけ。おまえなんか知らない。おまえなんか呼んでない。
「なぜ、こんな所で、こんな事をしているんだ…!」
「な…んだよ、おまえになんか、関係ぇねぇよ…、どうでも…いいじゃねぇか、そんな事…」
そう言いながら目の前の身体に抱きつき、袂から手を差し入れ、裸の肌の温もりを求めた。けれ
どその身体は彼の望む温もりを与えようとはせず、彼の身体を引き剥がした。
「やめないか!」
「なんだ…よ、何しに…来たんだ…、俺を…暖っためてくれるんじゃなかったら、こっから…
出てけ、よ…!」


(6)
「どうぞ手荒になさいませぬよう。」
彼をこの部屋へと案内した女房が、香炉を手に低く声をかける。そこから広がる甘い香りが一段
と濃密に室内を満たすと、少年の目はまたとろりと溶けて甘い香の闇に沈んでいった。彼はその
女房を睨みつけたが、彼女はその視線をやんわりと受け流し、「どうぞごゆるりと」と、不気味な笑
みを残して消えていった。

何もかもを甘く包み込むような濃い香りの闇をじんわりと照らす小さな明りの元で、香のもたらす
まぼろしに心を奪われた少年を、信じられない、という思いで見つめる。
ふっくらと可愛らしかった頬はこけ、顎は細くとがり、健やかな血の色を失って窶れ果てたその顔
は、どこか淫靡であった。大きな瞳は憂いに満ち、甘い香の効果に焦点の合わないその眼差しは
妖艶ですらあった。ほっそりと白い首が少女めいた面差しを支え、すっかり肉の落ちた肩は薄く、
腕は細く、これがかつて剣技の冴えを称えられた、幼くとも勇敢な少年検非違使と同じ人間である
とは、俄かには信じがたいほどであった。ましてやその彼が、魔の香に囚われ、相手構わず肌の
暖かさを求める程に堕ちていようとは。

少年のその様子に、耳に入った噂がほぼ真実に近かった事を思い知らされて、暗澹たる思いで
彼は横たわる少年を見つめた。ここまで堕ちてゆくに足る程の彼の絶望を、苦しみを思い、また、
彼をこれ程の闇に追い落とした人物の儚さを嘆いた。そして、彼がこれ程までに苦しんでいた時に
傍にいてやる事もできなかった自分の無力さを、彼は呪った。
そうして束の間、痛ましい眼差しで少年を眺めた後に、彼は意を決したように眦をきりりと上げて立
ち上がった。


(7)
引き戸の外に控えていた先程の女房が、同じように微笑んだまま、彼を迎えた。
睨みつける視線も気にかけず、つと立ち上がると彼に目配せし、ついて来い、というように身を翻
した。廊下を渡り、女の向かった部屋は、どこか異国の香りの漂う豪華な調度で設えられた部屋
だった。部屋の中央に女は腰をおろし、勧められるままに彼も女の向かいに腰をおろす。
悠然と座るそのさまと、傍らに使える女童の態度からこの女がただの女房でなくこの屋敷の主で
ある事に気付き、彼は眼を見張った。高貴な身分の女性がこのように人前に姿をあらわすなどと
は考えがたい事であった。けれど女は彼の驚き、非難するような眼差しを平然と受ける。
女の醸し出す空気は、先程までいた室内を満たしていたものと同じように、甘く、からみつくように
ねっとりと甘く、その空気は彼にとってはひどく不快であった。
なぜ、かの少年が、この屋敷にあのような状態でいるのかわからない。けれど、それが、この得体
の知れない女の意の結果であろうという事だけが、彼にはわかった。
それならば、と、彼は意を決して女を見据えた。本来であれば目通りも許されぬであろう高貴な存
在に向かって、臆する事もなく。


(8)
「彼を返していただく。」
低く鋭い声で彼は言った。
彼のきつい眼差しに、けれど女は髪の毛一筋ほども怯む事は無くただそれを受け止め、その顔
に笑みを浮かべたまま、変わらぬ甘く柔らかな声で、言葉を返した。
「返す、とは、これはまた異な事を。」
ぎらりと彼女を睨みつけると、彼女は、ほほ、と小さく笑って言った。
「雨に震えている仔犬を拾って、望むものを与えてやったというのに、そのような目で睨まれる謂
れはありませぬ。」
彼の視線を軽く流した女に向かって、低く、押し殺したような声で彼は尋ねた。
「彼が、何を望んだというのです?」
「熱い人肌と甘い夢。わたくしはただ、あの者の望むものを与えただけ。」
夢見るようにうっとりと、彼女は言った。
それから、その夢見る眼差しのまま、続けた。
「あの者を返せ、と言うそなたは、あの者をどこへ返すと、そしてあの者に何を与えられるというの
です?」
「彼自身を、彼自身のいるべき所へ。」

「ほ、」
彼女は大きく目を見開き、可笑しそうに笑い出した。
「ほほ、ほほほほほほ、それはそれは…ほほ、まあ、可笑しい。」
彼女は立ち上がって彼ににじり寄り、覗き込むようにその目を見ながら、尋ねた。
間近に目と目が合って、ぞくり、と背筋が震えた。
深い、底の知れないような黒目がちの瞳のその色に、我知らず、自分の背を嫌な汗が伝い落ちる
のを感じた。
この目に、この闇に、飲み込まれてはいけない。
「それでは、そなたの望むものは何です?」
歌うように彼女は問い掛ける。
「そなたはそなた自身の望みを、本当にわかっているのですか?」


(9)
夕陽が山々を染め始めようとする刻、都の外れに牛車が着き、一人の少年が屋敷に運び入れ
られた。
少年を運ぶ手助けとなっていた男は、屋敷の主が目配せするとすっといなくなった。
寝台に横たえられた少年を、そのやつれ果てた姿を、またもや悲痛な眼差しで見下ろした。
薄暗がりの部屋から、この屋敷の明るい部屋へ移され、薄紅く染まる柔らかな光のもとで彼を
間近に見ると、彼の顔も、身体も薄汚れており、また、衣には甘ったるいかおりが染み付いてい
て、清浄な筈のこの屋敷の空気までも汚されるようだ。
彼の身を清め、衣服を替えなければ、そう思って式を呼ぶ。
童の持ち来た湯に布を浸して絞り、それから汚れた衣服を取り払った。
だが、灯りの下に露わにされたその身体を見下ろして、それを拭き清めようとする手は止まり、
その手の持ち主は小さく眉をひそめた。
痩せた体と、陽に当たらずに白くなった皮膚は、妙な嗜虐芯をそそるものがあった。実際、彼を
乱暴に扱う者も少なからずいたようで、彼の身体には愛撫の跡だけでなく、痣や縛られたような
跡が古いものから新しいものまで数多く残されていた。
その傷から目を逸らしながら、少年の身体を清め、新たな衣で彼の身体を包んだ。
その時少年がうっすらと目を開いたので、思わず喜びに彼の名を呼んだ。
「近衛…!」


(10)
「なんだ…よ、それ?知らねえよ…そんな名前。」
たどたどしく、けれど呼びかけを否定する言葉に、唇を噛みながら、けれどもう一度問う。
「では、君の名は?」
「知らねえ。忘れたよ。要らねえんだよ、名前なんか。」
「名がなければ呼ぶのに困る。君が忘れたというのなら僕が教えてやる。近衛、」
「その名で呼ぶな!」
その呼び名は、嫌いだ。
嫌いだ。訳なんか分からない。でも、そう呼ばれるのは嫌だ。
「では…ヒカル、」
ヒカル、と、呼びかけられて、不意に涙がこぼれそうになった。
その呼び名は遠い甘やかな記憶を呼び起こした。
昔、自分をそんな風に呼んだ人がいたような気がする。あれは、誰だったろう。うららかな春の
日差しのような優しい笑み。柔らかな声で、ヒカル、と呼びかけたのは、あれは、誰だったろう。
「……それなら、いい。」
ぽつりと言った後に、自分にそう呼びかけた人物に改めて目をやった。
「…あんた…、誰?」
「…賀茂明。」
「ふ…ん。」
つまらなさそうに見返し、ふとかち合った視線に、怯えたように目をそらした。
何がそんなに恐ろしいのかわからない。わからないけれど、今、自分を見つめている真っ直ぐな
眼差しが、とてつもなく恐ろしいと感じた。
闇を切り裂く鋭い光。泥のような安寧に浸っていた自分を白日の下にさらけ出すようなその視線。
その光は、見たくなかった真実を照らし、目を逸らしていた自分自身の姿をさらけ出し、事実を眼
前に突きつける。闇が光を恐れるように、ヒカルはその光を本能的に怖れた。
恐ろしくて逃げ出したいのに、起き上がる事もできず、ましてやこの光から逃れる事などできない。
逃げ出す事ができないまま、ただ顔を背け、ぎゅっと目を瞑った。
恐怖はそのまま飢餓感と寒さをもたらす。その予感に怯えて、彼は身を縮めた。


(11)
重苦しい思いを抱えたまま、アキラは自分を拒むように小さく縮こまるヒカルを、ただ眺めた。
香の効果とはいえ、ヒカルが自分を認めないのが、悲しかった。
彼とは親しい友であった筈ではないか?いや、実際にはそれ程親しかった訳ではないのかもしれ
ない。けれど、顔も、名も、忘れられてしまっている事に、やはり衝撃を受けた。いや、それだけで
はなく、自分の存在そのものが忘れ去られてしまっているのかもしれない。そんな恐怖を感じて、
ぞくりと背筋が震えた。
自分が、自分自身の存在が、彼から拒絶されているような気がした。

否。
気がした、のではない。
彼は正しく拒絶していたのだ。彼から最も大切な人を無情に奪ったこの世を、この憂世にあるもの
全てを、自らの存在を賭けて拒絶し、否定していたのだ。

何故、と声に出さずにアキラは問う。
答えのわかりきった問いを。
それほどまでに、彼を失った事は君にとって苦痛だったのか。
彼を失った君の心には僕のことなど欠片も残っていないのか?それほどまでに、君にとって彼は
大きな存在だったのか。彼を失ったら全てを失ってしまっても構わないと言うほどに。
それほどに、彼のいない世界は君にとって意味の無いものなのか。


(12)
固く目を閉じている身体が小さく震えている。乾いた唇から何か言葉が漏れた。
「どうした、近衛。」
彼の呟きをもう一度拾おうと、口元に耳を寄せた。
「寒い…」
「寒いのか?今、掛け物を…」
「違う…」
ヒカルは近づいてきたアキラに抱き縋り、そのまま、その身体を床に引き倒した。
「な……や…めろっ…!」
抗おうとするアキラに尚も取りすがりながら、ヒカルの手はアキラの身体を探ろうとする。
「なんでだ…」
襟元の紐を解きながらヒカルは言った。
「俺が…キライか?」
ヒカルの身体を必死に押し戻し、襟元を押さえながら、アキラが返した。
「…そんな事、僕が聞きたい。僕などどうでもいいいくせに、どうして、こんな事ができるんだ。」
「だって、寒いんだ。寒いんだよ、俺。」
「寒い、寒いって、暖めてくれる人なら、誰でもいいって言うのか、君は!?」
「そうだよ!誰でもいいよ!」
ヒカルはアキラの身体に取り縋った。
「寒いんだ。寒くて、寒くて、死にそうなんだ。俺を、あっためてくれよ…」
目の前の鋭い光を放つ黒い瞳が恐ろしい。けれど、今自分を暖めてくれる人はこの人しかいない
のだから。そう思ってガチガチと歯音を立てながら、それでもヒカルはアキラに必至に取り縋った。
アキラの衣を掴む彼の手も、全身も、がたがたと震えていた。指先は本当に冷たかった。縋り付く
ヒカルの身体から、冷え冷えとした空気が伝わってくるような気がした。
実際、彼の悪寒も震えも、香を求める体の作用に過ぎないのだろうが、けれど彼が訴える寒さも
また、彼にとってはまた真実なのだとはわかっていた。
けれど訴えるその瞳はそれでもどこか虚ろで。



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