平安幻想秘聞録・第三章 5
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これを聞いて、男はヒカルを名残惜しそうに見つめながらも、何も言
わずに立ち去った。
「佐為、かっこ良かったな。オレ、見直しちゃったよ」
「すぐに相手が誰が分かったからですよ。あの方が私に危害を加えると
は思えませんでしたから」
ほっとした佐為が自分をひしっと抱き締めたとき、ヒカルは既に意識
が戻っていた。ただ、身体が思うように動かず、逃げることも抗うこと
もできなかっただけだ。
自分に触れているのが佐為ではないと、ヒカルにはすぐに分かった。
触れ合う肌の感触に違和感を覚えたせいもあったが、衣に焚きしめた香
の匂いが違っていたからだ。
佐為には佐為の、明には明の、それぞれ好む香りがあることに、ここ
数週間でヒカルも気がついていた。現代のように気軽にシャワーや風呂
に入り、衣を洗濯することができない平安の世では、臭い消しの役目も
兼ねて、折々の季節に合わせた香を焚きしめるのは貴族の嗜みのような
ものだった。
「あれ、やっぱり東宮だったんだ」
「おそらく・・・」
佐為もはっきりとは顔を見ていないし、直衣も普段見慣れた黄丹では
なかったが、背格好といい立ち振る舞いといい、まず間違いないだろう。
男に夜這いを駆けられるとは、ヒカルにとっては踏んだり蹴ったりと
いう程度のことだが、佐為は別に心配ごとがあった。
それは、東宮にヒカルが佐為の元にいる事実を知られており、他にも
彼の息のかかった者が屋敷内に紛れ込んでいる可能性があることだった。
「あのさ、そういや、昨夜の女房って、どうなったの?」
ヒカルや門番に一服盛って、眠らせた女房のことだ。
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