霞彼方 5
(5)
「まったく、女の考えてることはわからん。進藤、あんな女にはひっかかるなよ」
ぶつぶつと言いながら歩く森下の横でヒカルは考える。
今日、かいま見た、森下の棋士として勝負に臨む時の顔。自分も、盤上を見ている
ときはあんな風に見えるのだろうか。だったらいいな。自分も他人からそう思って
もらって初めて一人前の仲間入りといえるんじゃないか。でも、こんな事を考えて
るうちはまだまだなんだろうな。雑念ひとつ抱かず、ただあの十九路の世界に
没入できるようにならないと、きっと、かの人の着物の裾さえ掴めるレベルには
なれないんだろう……。
しかし、酒が入っていたせいで、その考えはフワフワと頭の中を通りすぎて、
うまくまとまらなかった。
いつのまにか歌舞伎町を抜けて大通りに出ていた。
「あ、先生。オレ、地下鉄なんで、ここで」
「おお、気をつけて帰れ」
横断歩道の信号が青だったので、ヒカルは走り出した。
そして、一回振り返る。
酔いも手伝っていたのだろう、ヒカルは周囲の人が思わず注目するほどの声で
叫んでいた。
「先生っ! 次は俺が勝ちますから!」
挑戦的な瞳で、自らの師匠を睨み据える。
表情から先ほどまで「ぼうや」と呼ばれていた面影は消え、そこにいたのは、
自分より大きなものに挑みかかる若い棋士。
森下はらしくもなく、その光景を口を開けたまま見つめてしまった。
コンクリートの匂いのする乾いた風に、金の前髪を揺らされ、雑踏の中に立つ、
少年の中性的とも言える雰囲気がざわざわと胸の奥を騒がせた。
前髪の間から、その目がまるで昼間に碁盤をはさんで向かい合っていた時の
ように、自分を睨み据えている。
なのに、アルコールのためにほんのりと桃にそまった目元が、その表情に色を
そえ、その姿は、ハッとするほどに豊艶だった。
ヒカルの大声に振り返った人々の幾人かもまた、その表情に、その場に釘で
留められてしまったように動けずにいる。
そんな事に気付かないヒカルは、その場で森下に深々と頭をさげた。
「ごちそうさまでした!」
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