失着点・展界編 5
(5)
昇段のための勝ち星をかけた大手合いが始まった。ヒカルは軽く息を吸うと
アキラと同様にプロ棋士・進藤ヒカルへとなり変わる。
プロとは、プライベートであった出来事を切り捨てて目前の勝負に臨める事、
それが条件のひとつである。
ヒカルが今まず第一に克服していかなければいけない課題だ。
視界の端に、対戦者が現れない和谷の相手の後ろ姿が見える。
ある一定の時間が過ぎ、その相手は席を立って行った。
ほぼ同時に、「…ありません。」と早くも負けを宣言する悲痛な声が聞こえて
何人かがそちらを注目した。声の主は塔矢アキラの相手だった。
ヒカルにはアキラが手っ取り早く相手を倒した理由が何となく分かっていた。
会場を出たアキラは、協会側の人達と軽く打ち合わせの確認を済ませ、
ロビーで待機していた。
「少し早いですが…もう空港に向かいますか?タクシーを呼びますか?」
職員がアキラに声をかける。
「あ、…いえ、もう少し待って下さい。」
しばらくして対局を終わらせたヒカルが駆け付けて来た。当然勝って、だが。
ヒカルはそのまま外へ飛び出して行きそうになり、「進藤」というアキラの
呼び掛けに急ブレーキをかけた。
ヒカルはアキラを見送る事が出来てホッとした。
基院会館の前でタクシーに乗り込むアキラと握手を交わす。人前ではそれが
精一杯だった。
昨日シャワーを浴びながら最後にアキラと深く長いキスを交わした。
それで十分だった。
走り去ったタクシーを見送って、ヒカルは会館に入ろうと思った。
そのヒカルの足がピタリと止まった。
道路の向こう側に、和谷が立っていた。
|