平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 5 - 6
(5)
「近衛、僕なら、決して、君を捨てたりしない。君より先に死んだりしない」
アキラの唇が、自分のそれに触れる。
水を口に含んだように、味の薄い、だけどさらりと心地のよい唇の感触。
ちょうど近衛の家の門の前だった。
眼前のアキラの顔が自分から離れるのを、ヒカルは茫然と眺める。
しばらくそうやって、お互いの瞳の向こうにある真意を探るように見つめあっていた。
アキラは何も言わず、ただきびすを返した。
綺麗に切りそろえられたその黒い髪が、肩の上で揺れた。
(そういえば、あいつ、俺のこと好きなんだっけ?)
昔の記憶を頭の中の引き出しから引っ張り出しながら、ヒカルは遠ざかるアキラ
の背中を見送る。
今でも、なのだろうか?
アキラに好きだと言われたその時の記憶を探っていたヒカルだったが、途中で
慌ててそれを心の奥にしまい直した。
その情景の中には、佐為の姿があったからだ。
思い出の中に立つ佐為の、その美しさに胸が痛くなる。
ヒカルは近衛家の門の錠を開けた。
隣近所や向かいの家からも、水音や人の声が聞こえ始めていた。皆も起き出したの
だろう。
これから、京の町の一日が始まるのだ。
帰宅したヒカルは、まず厩に寄った。
今、ここには三頭の馬がいる。ヒカルが検非違使になったばかりのころに買った馬と、
今年の五月、笠懸(馬に乗って遠くの的を弓で射る競技)の時にいい成績をおさめて、
その褒美として賜った青馬。そして、それを喜んだ祖父が酔っぱらって盛り上がっ
た拍子に衝動買いして来た、まだ二歳程度の若い馬だ。
世話は、その為だけに朝夕と家に来てくれる手伝いの人間にまかせていたが、それが
きちんと為されているか見るのも、ヒカルの大事な仕事だ。
今では家族同然の馬達の顔を見に、厩に足を向ける。
(6)
それらの世話がきちんと終わっているか確認してから、母屋に行くと、祖父と母が
朝餉をとっていた。
「おう、ヒカル、朝はもう食ったのか?」
「うん、検非違使庁で食べてきた」
「そうそう、ヒカル、あかりちゃんが帰って来てるって知ってた?」
「え、そうなの?」
「穢れ払いの物忌みって聞いたけど、あちらのお家じゃ、久しぶりに家の中が華やい
だって大喜びよ。もっとも表向きがそういう理由だから、あんまり大騒ぎはでき
ないけどね。あなたも、顔を出してきてあげたら?」
物忌みの時は、普通はもっとしんみりと家を閉ざし、静かにしているものなのだけど、
いいんだろうか?(それに、あれ? あかりの時期ってこんなもんだっけ?)
ヒカルは首をひねった。内裏の中では血はもっとも忌むべき穢れだから、女性は
月の物がくれば、いったん里へ下がる。ヒカルは内裏であかりと顔を合わせることが
多かった分、彼女が里に下がればわかるから、その気はなくとも、なんとなくあかりの
それの周期を知っていたりするのだ。
まぁ、一眠りしたら顔を見に行って来るか、とヒカルは自室で床につく。
そういえば、あかりもこの間まで佐為佐為って騒いでたけど、今はどうなんだろう?
他の女房達のように手の平を返し、その名を忌み避けるのだろうか?
内裏でヒカルをこづいては笑う、幼なじみの顔が浮かんだ。しかし、そのこづかれて
いるヒカルが時々ドキリとするほどに、あかりは、この一年ほどで綺麗になった。
(あいつ、通ってくる男とかいんのかなぁ)
ヒカルは目を閉じ、ぼんやり思いを巡らせる。
彼女だってもうそろそろ誰かと結婚したっておかしくない年頃だ。
もしかしたら今回の里帰りも物忌みとは表向きで、実はどこかにいい人でもいて、
その婚姻の準備のためなのかも知れないと思い当たった。
あのあかりに恋人がいるなんて、まったく想像もつかないけれど。
恋人か、と考えて、ヒカルの思考はその言葉につまづいた。
自分と佐為とは、結局どういう関係だったのだろう。
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