敗着-透硅砂- 5 - 6
(5)
パチャパチャと水を跳ねながら、ヒカルは本屋を後にした。
(碁のプロなんだ…。もっと勉強しないと…)
研究のために買った詰め碁集が雨に濡れないようしっかりと抱えて歩道橋を昇っていく。歩道橋を歩いていてふと前を見ると、向こうの方から薄水色の傘を差した少年が歩いてくるのが目に入った。
(塔矢……!)
驚いて立ち止まると目を見張った。
(雨…。鬱陶しいな…)
水が跳ねないように気を付けながら、下を向いてアキラは階段を昇った。
テストはまだ先のことだが、進藤の一件以来、授業についていくことが苦しくなっていた。大学に進む気はなかったが、成績が下がることは避けたかった。
(少し応用編が多い参考書を買えばいいのかな…。基礎は教科書を繰り返しやれば分かるだろう…)
歩道橋の中ほどまで来て、前に人が立っているのに気がつき足を止め顔を上げた。
(――!)
驚いて息をのんだ。
(……進藤…。)
透明のビニール傘の下で、向こうも困惑した顔つきでこちらを見ていた。
降りしきる雨の中を、真正面から向き合った。
進藤の傘に雨が幾筋もの跡をつけ、ぽたぽたとひっきりなしに水滴を落としている。
「よお…」
ヒカルが口を開いた。
(6)
「こんにちは…」
平静を装って挨拶を返したが、緊張で声が震えそうだった。
「…買い物…?」
進藤が訊いてきた。
「うん…。ちょっと…」
傘を叩く雨の音に混じって進藤の声が聞こえる。見ると本屋の袋を小脇に抱えていた。
「あの…あのさ、塔矢…」
ヒカルが言い出しにくそうに、躊躇いながら言った。
「あのさ…。オマエ…、ずっと…ウチ、来てくれたんだってな…」
顔が熱くなった。
過去に自分がしたことを持ち出され、羞恥で顔が赤くなったような気がした。それを悟られまいと少し俯き隠すように傘の位置を下にした。
「……その、オレ…いつも留守にしてて…」
それを聞いて傘の持ち手をきつく握りしめた。
―――それがどうしたと言うんだ?
今更そんなことを言って、キミは緒方さんのところへ行っていたんだろう?
そう言って殴りかかりたい気持ちを抑え、黙って聞いていた。
「その…ありがと…な…。来てくれて…」
その言葉に顔を上げると、進藤と目が合った。傘から滴り落ちる水滴の向こうに進藤の瞳があった。
何も言えなかった。
しばらく黙って見つめ合っていたが、俯いて目線を逸らした。
「…悪いけど、ボク急いでるから…」
そう言って進藤の横を通り抜けた。
すれ違う瞬間、進藤の傘と自分の傘がトンとぶつかり、手の中で傘の持ち手が小さく回った。
パシャパシャと雨水を跳ねながら急いで階段を降り、歩道を何メートルか進んだところで立ち止まって後ろを振り返った。
歩道橋の真ん中で、透明の傘を持った進藤が自分を見つめていた。
雨のカーテンに遮られ、滲んだように見えてはいるが、灰色の空を背景にして立っている進藤と見つめ合った。
周囲の音が消えた。
突然聞こえた車のクラクションで現実に引き戻された。
雨の音と人々のざわめきが耳に入ってきた。
歩道橋の上から視線を外すと、足早に歩き出した。
今度はもう、振り返ることはなかった。
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