失着点・境界編 5 - 6
(5)
「そうか、それで進藤君、ボーッとしてるのか。顔が赤いよ。」
「あ、う、うん。」
ヒカルはわざとらしく眠そうに目をこすってみせた。
「…あれ、アキラ君、首のとこ…、」
芦原がアキラを指差し、再びヒカルの心臓が躍り上がった。
しまった、あまりに強く吸いすぎたのだ。
「え、何?」
アキラは無造作にボリボリと首をかいた。そして手をどけた跡を見て
ヒカルはギョッとなった。血が出ている。アキラが爪で傷つけたのだ。
「あーあー、アキラ君にしては珍しいなあ、掻き壊すなんて。」
芦原が素早くそこにあったティッシュを数枚取ってシンクで少し水に濡らし、
アキラの首にあてた。
「ありがとう、芦原さん。…いつ刺されたのかな。」
芦原に顎を預けてアキラはすっかりさっきまでとは別人に成り変わっている。
その様子を見た時、カッとヒカルは何か体が熱くなる感覚を持った。
「オレ、帰るよ。」
ヒカルは玄関に向かった。この部屋で、芦原の前で何もないように装おう事は
ヒカルには出来そうになかった。
装おうことが出来るアキラが、何だか腹立だしかった。
「えー、進藤君?」芦原が困惑する。
「進藤は疲れているみたいなんだ。」
さらりと受け流すアキラの言葉に追い討ちをかけられた。
(6)
寿司折りの一つを持っていくよう芦原が勧めるのを断って、ヒカルは
アパートを出た。
「気をつけて帰りなよ。」
心配そうに玄関で見送る芦原とは対照的にキッチンの奥でアキラはコンロの
前に立つ。そして声が出ないように口の中でつぶやいた。
「…ごめん…、進藤…。」
帰りの地下鉄の中でヒカルはドア際に立ち、窓の暗闇を睨み続けていた。
あの部屋で誰かと居合わせたのは初めてだった。
碁会所や、棋院会館で他の誰かと一緒にアキラと向かうのとは違う。
あの部屋であれだけ深く激しく結びつき合い、ついさっきまでもああいう
行為をしていた。
そこに侵入者を、他の誰かを普通に招き入れる事ができるアキラが、
やはりヒカルにとっての常識を超える人種に思えた。
自分はアキラのものになってしまっている。悔しいけど。
でも自分はアキラを完全に自分のものにしきっていない。
そんなふうに感じた。
あの時、アキラに呼び止めてもらいたかった。
芦原がいるのもかまわず、自分の腕を掴んで部屋の中に連れ戻し
首筋にキスをねだるアキラの姿を願ったのだ。
そうすれば自分だって骨が軋む程アキラを抱き締めて芦原を睨み返す事が
できた。これでわかっただろう、気安くここへ足を踏み入れるな、と…
「…どうかしている。」
電車は暗闇の中を走り続ける。一つの方向へ。
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