枸杞の実 第三章 5 - 6


(5)
今日も雨だった
梅雨があけたら、今度は台風らしい
独り和室でパソコンに向かいながら、ちらりと窓の外を見遣る
雨がザァザァと庭木を打ちつける
いつかもこんな雨だった

そう、あれはsaiとネット碁を打った日だ
ふっと懐かしさか込み上げる
もう一年以上も前になるのか。だがあの時の棋譜は忘れた事はない
葉瀬中との対戦を経て進藤のふがいなさに落胆していたボクは、saiと彼は違う人物だと考えた
でも今は違う
彼と対局する度に彼の一手一手に、saiがちらつくから

木製の机も、椅子も、あの時と変わらずここにある
ディスプレイの隣には本立てがあって、その反対側には四角い置き時計
そして雨
あの時となんら変わらない部屋と、あまりにも変化してしまった僕の感情
畏怖がどうやってここまで屈折した愛情に変わったのか
もう正確に辿る事はできない
パソコンの電源を落とす
何をしていても進藤が頭から離れない。つい彼に想いを馳せてしまう自分がいる
今日だってそうだ
対局前だって、対局中でさえ彼を目で追っているんだ
そして、そんな自分に気づいては彼から目を逸らす
関わってはいけないと、関わらないと決めたくせに、心が彼を求めてしまう
一瞬でも、例え偶然でも、目が合えば嬉しくて、あながちボクも嫌われてはいないのかもしれないと考える
でも目が合った後でも、彼が駆けよるのはボクではなくて…
苦しそうに眉根を寄せたアキラはデスクに細い肘をついて、キーボードを見つめた
「進藤…」
雨の中、触れた柔らかな唇や絡めた甘い舌を思い出す
「進藤…」
もう一度彼の名を呼ぶ。熱い吐息が漏れる。身体の芯が熱く燃え上がるようだ
自然と手は熱を持ち始めた身体の中心に伸び、ズボンの上からゆっくりと撫でる
「…はぁっ…」
すでに服の上からもはっきりと形が分かるその先端を掻く
身体がその軽い刺激にぴくりと反応した
アキラは掌で、高ぶる牡の象徴をゆっくりと撫でる

もどかしさがつのるのと同時に、次第にズボンの圧力が苦痛になりファスナーを下げて紅潮したものを手に取る
すでに熱く脈打ち、直に手にとり軽く上下にこするだけで一瞬のうちに耽美な世界に引き込まれ
何も他の事は考えられなくなる
求めていたそれを手にした喜びに身体は歓喜に震えていた
「はぁっ…しんどう…」
頭の中では進藤を貫く自分がいる。まだ見ぬその悦楽を想像しながら手の動きは徐々にスピードを増していく
「…はっ」
無意識に腰が浮いて上体をデスクに預けた
キーボードがカチャカチャと音をたてた
「はぁっ…」
進藤の一糸纏わぬ姿に自分が重なっている
唇だけじゃ足りない
あの桜色の唇から零れる喘ぎを聞きたい
あの白く滑らかな肌に触れてみたい
手で唇で、彼の全てを味わってみたい
できるならばどんなにか気持ちいいだろう
アキラの手の動きは高まりに比例して速くなる。
「…んっ」
進藤…
何かを掴むように伸びた手に時計が当たり、ガチャンとデスクから落ちた
「―――っ!」
先端の先にかぶせるようにしてあてがわれた手に自分の快楽を吐き出す
身体を走り抜ける波に身を委ね、暫くその快感に見を任せていた
荒い息を整えると上体を起こして椅子に座り直す
自慰に耽溺した代償は左手にねっとりとこびりついた白濁液
いささかの罪悪感を胸にティッシュで掌を拭いて、乱れた髪を直すと、アキラは深い溜息をついていた
―――進藤に関わらないなんて、やっぱりボクには無理なんじゃないだろうか
アキラは小さくかぶりを振ってその考えを打ち消すと、足早に洗面所に向かった
昼下がり、対局場に降り注ぐ穏やかな陽の光がヒカルの前髪を黄金色に染めている
斜め前に相対する具合に座ったアキラが盗み見るようにそれを見つめていた
真っ直ぐの髪を揺らし顔を背けては、また視線を送る

「くっ…!」
ボクの打った白石に対局者が小さく声を漏らした
この一局はもう終局まで道は見えている
相手は年齢こそ自分より一周りも二周りも上回るのだろうが、腕はたいしたことはない。
すんなり白星をもらうことができそうだった。
今日何度目かの視線を進藤に送ると、いつのまにか彼の対局を和谷が熱心に覗きこんでいた。
無意識に目を細める
いやなリズムで心臓が脈打つ
観戦したい
いや…だめだ
考えを払拭するように瞳を目の前の碁盤に落とす
もう、関わらないと決めた
そう心に決めた時から、早十日経つ
「…むぅ…」
相手は口をへの字に曲げてさっきからずっと長考している
しきりにハンカチで広い額の汗を拭う
無駄な事を
どんな手できたって、逆転などさせはしないのに

「…ありません」
相手は強張った顔で薄くなった頭を下げた
やっとのことで喉の奥から搾り出したとでも言うように、およそ年齢とは不釣り合いな頼りない声だった
「ありがとうございました」
眉一つ動かさず頭を下げる。だが意識はとうに対局から離れ、再び進藤の事を考えていた
「ありがとうございました…」
あおざめた顔でそそくさと席を立ち去る相手には目もくれず、彼の方を確認する
どうやら進藤も終局したらしく、相手は碁盤を見つめ肩を落としているように見える。
初段だという肩書に捕われ、侮ってでもいたのだろうか
彼をそんな事で見くびってもらっては困る
刹那、進藤と目が合った
俯く対局者の肩ごしに立て膝をついてボクを見ている
大きな瞳が、明らかになんらかの意思を籠めて輝いていた
ボクは突然の事に目を反らすことさえかなわない
進藤の物言いたげな眼差しをただ見つめ返す

何がいいたい?

思いも寄らない状況に心の隅で何かを期待していたのかもしれない
だが絡み合った視線はすぐにほどけてしまった
和谷に話し掛けられ、進藤はまるで先程の事など何も無かったように柔らかい笑顔を向けている
そのまま二人は立ち上がりボクの視界から消えてしまった


見るともなく二人を見ていると、さっきの進藤の眼差しに、なんらかの意図があったなんて
考えが怪しまれてくる
ボクの思い過ごし?
ボクの独りよがりな思いが見せた幻想なのか?
「…ハハ」
小さく声が漏れた
自分を嘲笑う
何をやっているんだ、ボクは
進藤に関わらないと決めたくせに、考えることは彼の事ばかり
このままじゃいけないと思っていても、どうしても緒方さんの言葉が気になった
確かに次は彼にどんな事をしてしまうか分からない
自信がない
そうは言っても今の気持ちを放置することなんて、すでにできることじゃない
―――いっそこの思いを全て打ち明けてしまおうか

そこまで考えて自分がまだ対局場に居た事を思い出した
まだ終局していないところもあるが、すっかり人はまばらになっている
屋上に行って新鮮な空気でも吸いたい気分だった


(6)
ひっそりとした階段を上っていく
薄暗く、普段は滅多に人もこない
ひんやりとした壁に手を這わせると、心地いい手触りがした
浮足だった心が不思議と落ち着いてくる気がする
一つづつ階段を上がる
濃い緑色のドアにたどり着く。そこは明かりは無く、昼間だというのにひどく暗い
ドアノブに手を掛け、カチャリと音を立てた
その時だった

「和谷っ!」
ドア越しに聞こえたのは聞き覚えのある声
心臓が跳ね上がる
離しかけたノブをおそるおそる、ゆっくりと引いてみる

思わず、息を呑んだ

僅かな隙間から見えるのは和谷の少し丸まった背中
そして抱かれるようにキスをされているのは……

驚いた。あまりの光景に身体がわなないていた
屋上の入口、まさにボクの眼前から、あまり離れていない金網に身体を預けるようにして
二人はキスをしている
つと和谷が身体を離した
はぁはぁと荒い息を付くのは―――
ボクがあの顔を見間違えるはずがない

紛れも無く進藤だった
しばし見つめあう二人に、またあのリズムで、ドクドクと心臓が波打つ
「進藤…。好きだ。お前が何より大事だ…オレ、だから…」

和谷の言葉を最後まで聞くことなく、ボクはそっと重い扉を閉めた
身体全体が心臓になったような感じがする
冷たい汗が背中を伝い落ちた
階段の手摺りに掴まりながら、ゆっくりと降りていく
冷たい絶望に閉ざされた頭の中を、闇を過ぎる影のように言葉が流れた
頭の中で幾度となくそれを反芻する
ボクは直視させられてしまった事実に打ちのめされそうになっていた
フロアにつくと一気に虚脱感が胸を襲う
階段を背にもたれ掛かって、掌で顔を覆い瞼を閉じた
予想していたはずの光景は目にしてみると想像以上にボクにショックを与えた
――やっぱりあの二人は…
そうして胸の中を吹く、冷え冷えとした風を噛み締めていると、誰かが降りて来る気配がした
一人だけの足音。果たしてどちらが降りてくるのだろう…

「塔矢…」
振り向くと、少し驚いた顔をした進藤だった
そのままボクの隣まで降りて来る
「どうしたんだよオマエ。気分でも悪いのか?」
軽く首を傾げて聞いてきた顔の瞳は潤んでいる
一目で、首筋の朱く浮き出た痣をみつけた
進藤の潤む両目を見据える
口にだしてしまいたかった
『本当にキミは心配なんかしているのか?そんなふうに欲情に瞳を濡らしている、キミが?』と
『ボクにそんな態度をとるのはヤメロ!』と
そう考えた途端、腹の底からどす黒い感情込み上げてきた
なんと表現したらいいのか分からない
ボクはただただ凶暴なうねりに身をまかせてしまいたかった
なにもかもが、音をたてて崩れていく
「別になんでもない。」
そう言って目をそらす
「オマエなんでもないっ――」
「それよりも今度の土曜に家に来ないか?」
「えっ?な、なんだよ突然。」
言葉を遮ってのボクの提案に、面食らったって表情
予想してなかった反応に眉をしかめてるふうな声音
「じゃあ、十時はどうかな?」
「いいけど…オマエんち分かんねぇよ、オレ。」
進藤ははばつが悪そうに一差し指で頬を掻いた
「そうか。なら駅前に十時でいいかな」
「うん。…分かった、十時な…。」
まだ腑に落ち無い様子の進藤に、おそらく憤怒の相よりも数段は恐ろしい笑みで、
言い含めるように話してやる
「やっぱり君と碁が打ちたいんだ。君と。今度の土日は家にはボクひとりになるから。
何なら親御さんに泊まってくるって言ってきたらどうかな?」
「マジ!?あ…でも…」
一瞬、ぱぁっと華やいだ顔がまた翳る
「どうかした?やっぱりボクと手合わせなんかしたくない?」
(誰か以外の家にいくのがマズイとでも?それとも本能が君に行くなと告げている…とか?)

「そ、そんな事ねーよ。じゃ十時に駅な」
ムキになって言い返す進藤がかわいかった
「あぁ、迎えにいくから。」
その進藤がボクの手によってめちゃくちゃになると思うとゾクリと背筋が痺れた
「さんきゅ。じゃあな」
無邪気な顔でそう言い残し、また階段を降りて行く進藤の後ろ姿を見つめる
見つめながらボクは、暗澹たる思いで約束の日の事を考えていた
さて―――どうする?
しかし我ながら口の上手さに舌を巻く
大人達ばかりの世界に身を置くために、必然的に身についたものなのだろうか

踵を返し、エレベーターのボタンを押す
ひんやりとした壁に触れても、もうボクの気持ちは静まることはなかった



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